杉浦重剛(読み)すぎうらじゅうごう

精選版 日本国語大辞典 「杉浦重剛」の意味・読み・例文・類語

すぎうら‐じゅうごう【杉浦重剛】

(「しげたけ」とも) 教育家。号梅窓。近江(滋賀県)出身。幼少のころから藩校遵義堂にはいり、のち東京に出て大学南校に学ぶ。イギリス留学から帰朝後、東京大学予備門長、高等教育会議議員などを歴任。明治一八年(一八八五)東京英語学校(のちの日本中学校)を創立、雑誌「日本人」の発刊に協力し、日本主義を唱導。次いで国学院学監、東亜同文書院長などを経て大正三年(一九一四)東宮御学問所御用掛となり、倫理の御進講を担当。著「倫理御進講草案」「日本教育原論」など。安政二~大正一三年(一八五五‐一九二四

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デジタル大辞泉 「杉浦重剛」の意味・読み・例文・類語

すぎうら‐しげたけ【杉浦重剛】

[1855~1924]教育家。近江おうみの生まれ。名は「じゅうごう」とも。雑誌「日本人」、新聞日本」の創刊に尽力。欧化主議に反対して日本主義主張した。日本中学校校長・東宮御学問所御用掛を歴任。著「倫理御進講草案」など。

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改訂新版 世界大百科事典 「杉浦重剛」の意味・わかりやすい解説

杉浦重剛 (すぎうらじゅうごう)
生没年:1855-1924(安政2-大正13)

明治・大正期の特異な日本主義思想家近江国膳所(ぜぜ)藩士の出身。少年時代に藩校や京都で漢学を学んだのち,1870年(明治3)藩から選ばれて,東京の大学南校に貢進生として入学し英学を専攻。76年文部省留学生としてイギリスに渡り,化学,物理学,数学などを学ぶ。80年帰国後は,東京大学予備門(旧制第一高等学校の前身)長,文部省参事官兼専門学務局次長など教育行政職を歴任,のち英語教育を重んじた私立中等学校日本中学校を経営する。晩年には東宮(昭和天皇)御学問所,良子女王(香淳皇后)御学問所の各御用掛として倫理,修身の指導に当たった。また80年代後半からは,日本の歴史や文学の特性を重んずる日本主義思想を唱道し,88年政教社結成に参画し,雑誌《日本人》,新聞《日本》の発刊に尽力したが,同時に欧米の自然科学と日本思想との調和や,自然科学観に立つ産業教育の振興なども主張した。
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百科事典マイペディア 「杉浦重剛」の意味・わかりやすい解説

杉浦重剛【すぎうらじゅうごう】

明治・大正期の思想家,教育家。名は正しくは〈しげたけ〉。膳所(ぜぜ)藩儒の家に生まれる。大学南校に学び,英国に留学,1882年東大予備門(旧制第一高等学校の前身)長となる。のち辞職し1888年三宅雪嶺らと《日本人》を創刊,国粋主義を唱道した。日本中学校を設け青年教育にあたり,また国学院学監,東宮御学問所御用掛,東亜同文書院長等を歴任。《倫理御進講草案》がある。
→関連項目江見水蔭古島一雄政教社日本(新聞)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「杉浦重剛」の意味・わかりやすい解説

杉浦重剛
すぎうらしげたけ

[生]安政2 (1855).3.3. 近江
[没]1924.2.13. 東京
教育家,思想家。「すぎうらじゅうごう」ともいう。号は天台道士。近江国膳所藩士の家に生まれ,藩校で漢籍を修め,明治3(1870)年藩貢進生として大学南校(東京大学の前身)に入学。1876年化学物理研究のためイギリスに留学。4年後帰国し東京大学理学部博物場取締掛,1882年同大学予備門長。1885年東京英語学校(のち日本中学校と改称)を設立。1888年雑誌『日本人』発刊に参加,日本主義を唱道するとともに,自然科学との調和を目指した。同 1888年文部省参事官兼専門学務局次長に就任,翌 1889年3月辞任。1890年第1回総選挙に当選,代議士となったが翌 1891年辞職。こののち高等教育会議議員,國學院学監,皇典講究所幹事長,東亜同文書院院長,教育調査会会員などを経て,1914年東宮御学問所御用掛になり皇太子,皇太子妃の教育指導にあたった。皇太子に対する講義はのちに『倫理御進講草案』の名で出版。主著『日本教育原論』(1889),『天台道士著作集』(1915)。

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朝日日本歴史人物事典 「杉浦重剛」の解説

杉浦重剛

没年:大正13.2.13(1924)
生年:安政2.3.3(1855.4.19)
明治大正期の政治家,教育家。膳所藩(滋賀県)藩士杉浦重文,八重の次男。号は梅窓。明治3(1870)年貢進生として大学南校に入り,9年第2回文部省留学生として英国に留学,理学を修める。15年東京大学予備門長,18年東京英学校(日本学園高校)設立。20年東大卒業生らと乾坤社を設立,21年政教社を設立して雑誌『日本人』の刊行を始める。22年,谷干城らの出資を受けた新聞『日本』の創刊にかかわる。杉浦は欧化主義が「直訳の弊」に陥り日本の「国性,国情」を勘案していないと批判し,国粋主義を唱えた。23年衆院議員選挙に当選し大成会に属したが第1議会終了をまたずに辞任。その後はアジア主義グループとの関係もあり35年東亜同文書院長を引き受けたが病気で36年辞任。大正3(1914)年東宮御学問所御用掛(倫理担当)となり,宮中某重大事件では既定皇太子妃候補変更を不可とし,良子妃実現に努力した。<参考文献>大町桂月『杉浦重剛先生』

(酒田正敏)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

山川 日本史小辞典 改訂新版 「杉浦重剛」の解説

杉浦重剛
すぎうらじゅうごう

1855.3.3~1924.2.13

明治・大正期の日本主義思想家・教育家。近江国生れ。1870年(明治3)膳所(ぜぜ)藩貢進生として大学南校入学。76年イギリス留学,80年に帰国後東京大学予備門長,文部省参事官兼専門学務局次長などを務めるが,おもに在野で多彩な言論・教育活動を展開。88年政教社の創設に加わり雑誌「日本人」を発刊。東京英語学校(のち日本中学校と改称)の設立,称好塾の経営にあたり,国学院学監・東亜同文書院長などとなる。著書「倫理御進講草案」。「杉浦重剛全集」全6巻。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「杉浦重剛」の解説

杉浦重剛 すぎうら-じゅうごう

1855-1924 明治-大正時代の教育者。
安政2年3月3日生まれ。大学南校にまなび,イギリスに留学。明治15年東京大学予備門長。18年東京英語学校を設立。21年三宅雪嶺らと政教社を結成,国粋主義をとなえた。23年衆議院議員。大正3年東宮御学問所御用掛となる。大正13年2月13日死去。70歳。近江(おうみ)(滋賀県)出身。号は梅窓,天台道士。名は「しげたけ」ともよむ。
【格言など】世界を怖れるな,唯自己を怖れよ(「天台道士著作集」)

杉浦重剛 すぎうら-しげたけ

すぎうら-じゅうごう

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旺文社日本史事典 三訂版 「杉浦重剛」の解説

杉浦重剛
すぎうらじゅうごう

1855〜1924
明治・大正時代の教育家・思想家
近江(滋賀県)の生まれ。大学南校に学び,イギリスに留学。帰国後,東大・文部省に奉職,のち民間教育者として活躍した。1888年政教社創立に参加。雑誌『日本人』,新聞『日本』に拠り,国粋主義を主張。1914年,東宮御学問所御用掛となり皇太子(昭和天皇)に倫理学を進講した。

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