デジタル大辞泉
「香淳皇后」の意味・読み・例文・類語
こうじゅん‐こうごう〔カウジユンクワウゴウ〕【香淳皇后】
[1903~2000]昭和天皇の皇后。名は良子。久邇宮邦彦王の第1王女。大正13年(1924)、皇太子裕仁と結婚。昭和天皇即位により皇后。平成元年(1989)皇太后。
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香淳皇后
こうじゅんこうごう
(1903―2000)
昭和天皇の皇后。久邇宮(くにのみや)邦彦王(くによしおう)の第1女子。母は鹿児島・島津家の出身。名は良子(ながこ)。1918年(大正7)学習院女学部中等科3年のとき、皇太子裕仁(ひろひと)の妃に内定。その後、元老山県有朋(やまがたありとも)が内定取りやめを求めた宮中某重大事件が起こる。しかし1922年9月婚約、1924年1月26日結婚。1926年12月裕仁の践祚(せんそ)により皇后となる。その誕生日3月6日は地久節(ちきゅうせつ)として1945年(昭和20)第二次世界大戦終戦まで祭日であった。明仁(あきひと)(1933年生まれ。125代天皇)、正仁(まさひと)(1935年生まれ。常陸宮(ひたちのみや)家を創立)の2男、成子(しげこ)(1925年生まれ。東久邇宮盛厚(ひがしくにのみやもりひろ)と結婚。1961年死去)、祐子(さちこ)(1927年生まれ、翌年死去)、和子(かずこ)(1929年生まれ。鷹司平通(たかつかさとしみち)と結婚。1989年死去)、厚子(あつこ)(1931年生まれ。池田隆政(たかまさ)と結婚)、貴子(たかこ)(1939年生まれ。島津久永(ひさなが)と結婚)の5女をもうけた。「桃苑」の雅号をもち、書道、歌道などのほか、前田青邨(せいそん)に学んだ日本画を趣味とする。1963年、還暦記念として皇居内に音楽堂(桃華楽堂)が建設された。1989年(平成1)1月、皇太后となる。平成12年6月16日死去。同年7月香淳皇后と追号された。
[小田部雄次]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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香淳皇后
コウジュンコウゴウ
昭和期の皇族 昭和天皇皇后。
- 生年
- 明治36(1903)年3月6日
- 没年
- 平成12(2000)年6月16日
- 出生地
- 東京
- 別名
- 御名=良子(ナガコ),雅号=桃苑
- 経歴
- 御名良子(ながこ)。久邇宮邦彦親王の第一王女。学習院女学部中等科3年のとき、裕仁皇太子妃に内定のため退学、久邇宮家に特設された御学問所で“皇后学”をご勉強。大正13年1月26日皇太子妃、同15年12月25日昭和天皇即位とともに皇后になられた。戦後は天皇とともに各種行事にご出席、昭和46年秋のご訪欧、50年秋のご訪米には天皇に同行、国際親善に大きな役割を果された。64年1月7日天皇崩御にともない皇太后になられた。ご趣味が広く、日本画の画集が2冊ある。歴代皇后の中で最長寿だった。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
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香淳皇后 こうじゅんこうごう
1903-2000 昭和天皇の皇后。
明治36年3月6日生まれ。久邇宮邦彦(くにのみや-くによし)王の第1王女。大正7年皇太子妃に内定するが,元老山県有朋(やまがた-ありとも)らが「家系に色盲の遺伝がある」と反対して紛糾(宮中某重大事件)。13年結婚,15年皇后。2男5女をもうける。戦後,天皇と欧米を歴訪する。趣味は日本画で桃苑の号がある。昭和64年皇太后。平成12年6月16日死去。97歳。学習院女学部中等科中退。名は良子(ながこ)。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
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香淳皇后 (こうじゅんこうごう)
生年月日:1903年3月6日
大正時代-平成時代の皇族。昭和天皇の皇后
2000年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
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