西村茂樹(読み)ニシムラシゲキ

デジタル大辞泉 「西村茂樹」の意味・読み・例文・類語

にしむら‐しげき【西村茂樹】

[1828~1902]道徳教育家下総しもうさの生まれ。明六社に参加。また、明治9年(1876)東京修身学社を創設(のち日本弘道会と改称)し、儒教的倫理思想に基づく国民道徳の高揚に努めた。著「日本道徳論」など。

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精選版 日本国語大辞典 「西村茂樹」の意味・読み・例文・類語

にしむら‐しげき【西村茂樹】

  1. 幕末・明治の倫理学者、教育家。下総国千葉県)出身。はじめ儒学を学び、のち洋学を佐久間象山に学ぶ。維新後、文部省および宮内省に出仕。明治六年(一八七三)森有礼らと明六社を設立、啓蒙運動を行なう。同二〇年には日本弘道会を組織。著「日本道徳論」など。文政一一~明治三五年(一八二八‐一九〇二

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「西村茂樹」の意味・わかりやすい解説

西村茂樹
にしむらしげき
(1828―1902)

明治時代の道徳運動家、教育家。幼名を平太郎、字(あざな)は芳在(ほうざい)。のち鼎(かなえ)と称し、また茂樹と改めた。号を樸堂(ぼくどう)、泊翁(はくおう)といった。泊翁の「泊」は九十九里浜を意味する。千葉県佐倉藩士の家に生まれ、藩校で儒学を修めたのち、佐久間象山(さくましょうざん)らに師事して洋学を学んだ。幕末すでに藩の要職にあったが、廃藩置県後上京し、1873年(明治6)森有礼(もりありのり)の勧めに応じて明六社(めいろくしゃ)の啓蒙(けいもう)運動に加わった。1875年5月文部省に出仕し、宮中侍講(じこう)を兼ねた。文部省では編集課長、編集局長、報告局長、編集局長(再)を歴任し、『古事類苑(こじるいえん)』などの編纂(へんさん)に尽力した。一方、1872年に頒布された学制には、もっぱら生をおさめ産をおこすことのみを説いて、ひとつも仁義忠孝を教えた語のないのを遺憾とし、独力で国民の道徳を維持しようと志したが、1876年になって15、16人の同志を得たので、東京修身学社をおこした。これが現在も活動を続けている社団法人日本弘道会のおこりである。晩年は宮中顧問官貴族院議員などを務めた。

 日本弘道会は1907年(明治40)9月までの段階で142支会をもち、会員数は最盛期の1902年には7191名を数えた。泊翁はこの会を本拠にして道義高揚に努めたが、執筆した文章の大半は『西村茂樹全集』全3巻に収められている。なかに『日本道徳論』も含まれ、これが代表作とみられている。彼はとかく保守反動と思われがちであるが、なかなかの改進家でもあった。

古川哲史


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改訂新版 世界大百科事典 「西村茂樹」の意味・わかりやすい解説

西村茂樹 (にしむらしげき)
生没年:1828-1902(文政11-明治35)

明治期の啓蒙思想家,教育家。号は泊翁。文学博士。佐倉藩士の家に生まれ,安井息軒らに儒学を学び,佐久間象山に入門して洋学を修めた。支藩佐野藩の付人となり,また側用人となって藩政に当たり,藩主堀田正睦が老中外国事務専任となるに伴いその側近として活躍した。明治維新後,佐倉本藩の年寄となり,執政となったが,廃藩置県後の1872年(明治5)45歳で上京して私塾を開いた。翌年森有礼の要請で明六社の創立に参画し,この年文部省編集課長となった。翌74年創刊の《明六雑誌》に寄稿し続けたが,社員の中では最も保守派に位置した。急激な西欧文明の流入と儒教道徳の衰退を憂え,道徳興起をはかって76年東京修身学社を創設した。79年東京学士会院会長となり,80年文部省編集局長となって儒教的な教科書《小学修身訓》を刊行した。84年東京修身学社を日本講道会と改称して会長,86年宮中顧問官となり,森文相より帝国大学総長就任を要請されたが,辞した。同年〈日本道徳論〉を講演し,翌87年これを出版して各省大臣や知友に配布し,欧化政策を批判するとともに法や制度のみに目を奪われない忠孝道徳の高揚を力説した。この年日本講道会をさらに日本弘道会と改めて拡大化をはかった。88年華族女学校長を兼任し,90年貴族院勅選議員に選ばれた。代表著作は《泊翁叢書》(全2集)に収められている。
執筆者:

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朝日日本歴史人物事典 「西村茂樹」の解説

西村茂樹

没年:明治35.8.18(1902)
生年:文政11.3.13(1828.4.26)
明治時代の啓蒙思想家。名は重器または茂樹。号は泊翁,樸堂,庸斎。佐倉藩(千葉県佐倉)支藩佐野藩の執政西村芳郁,楽の長男。安井息軒らに儒学を学び,蘭学を佐久間象山,英学を手塚律蔵に学ぶ。明治維新後啓蒙活動に従事した。明治7(1874)年福沢諭吉,森有礼らと明六社を結成し『明六雑誌』に盛んに投稿した。明六社中の保守派で,道義の一筋を通そうとし道徳と政治の一致を説き,のちに幕末の討幕運動の不道徳性を批判した。彼は当時の日本の道徳的混乱を憂え,9年杉亨二,坂谷素 らと東京修身学社を創立し,のちに日本講道会,さらに日本弘道会と改めて日本道徳の再建に努力した。19年宮中顧問官。20年『日本道徳論』を著し,西洋哲学と東洋儒教の一致点を日本道徳の基礎とすることを主張した。23~25年貴族院勅選議員。<著作>『西村茂樹全集』全3巻,『心学講義』『徳学講義』<参考文献>高橋昌郎『西村茂樹』

(小泉仰)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「西村茂樹」の意味・わかりやすい解説

西村茂樹
にしむらしげき

[生]文政11(1828).3.13. 江戸
[没]1902.8.18. 東京
思想家,教育家。名は鼎,字は重器,号は泊翁。佐野藩士西村芝郁の子。儒学を安井息軒,大槻磐渓に,洋学を佐久間象山,木村軍太郎らに学んだ。安政1 (1854) 年佐野藩年寄役,さらに慶応4 (68) 年に佐倉藩年寄役となって,藩政改革を行なった。明治4 (71) 年印旛県権参事となったが翌年辞し,深川に家塾を開いた。 1873年西周,福沢諭吉,森有礼らの「明六社」に参加。同年文部省に勤務し,教科書の編纂,『古事類苑』の編集にあたった。 76年東京修身学社を設立,87年日本弘道会と改称した。 84年から宮内省勤務となり,侍講として洋書を進講した。宮中顧問官,華族女学校校長を歴任,90年貴族院議員に勅選。『日本道徳論』 (87) を著わし,国民道徳確立を唱え,その普及に努めた。その他の著書に『国家道徳論』 (94) ,『自識録』 (99) ,『婦女鑑』『万国史略』がある。

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百科事典マイペディア 「西村茂樹」の意味・わかりやすい解説

西村茂樹【にしむらしげき】

明治期の啓蒙思想家,教育家。佐倉藩士の家に生まれ,漢学・洋学を学び藩に出仕。1872年上京,私塾を開き,明六社に参加した。のち文部省,宮内省,華族女学校に関与。1876年修身学社(後の日本弘道会)を設立,儒教的な国民道徳運動を推進。1880年には文部省編集局長となって儒教的な教科書《小学修身訓》を刊行した。主著《日本道徳論》。
→関連項目古事類苑

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「西村茂樹」の解説

西村茂樹 にしむら-しげき

1828-1902 江戸後期-明治時代の武士,道徳思想家。
文政11年3月13日生まれ。西村勝三の兄。下総(しもうさ)佐倉藩(千葉県)家老。儒学を安井息軒(そっけん),洋学を佐久間象山(しょうざん)にまなぶ。明治6年森有礼(ありのり)らと明六社の創立に参加,9年には東京修身学社(のちの日本弘道会)を創設,道徳思想の高揚につとめた。宮中顧問官,華族女学校長を兼任。明治35年8月18日死去。75歳。名ははじめ芳在,鼎。号は泊翁など。著作に「日本道徳論」など。
【格言など】およそ学問に朋友を得るより楽しきはなく,またその道の弘まるも朋友の力をもって第一とす(「日本道徳論」)

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「西村茂樹」の解説

西村茂樹
にしむらしげき

1828.3.13~1902.8.18

幕末期の下総国佐倉藩士,明治期の道徳教育家。号は泊翁。江戸生れ。儒学・洋学を学び藩政に加わった。明治維新後,新政府の文部省に出仕。明六社結成に中心的役割をはたす。1876年(明治9)東京修身学社を設立し,84年日本講道会と改めて会長に就任。87年「日本道徳論」を刊行し,会名を日本弘道会と改めた。晩年講演旅行によって儒教主義・皇室中心主義の道徳思想を鼓吹した。華族女学校校長なども務めた。東京学士会院会員。

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旺文社日本史事典 三訂版 「西村茂樹」の解説

西村茂樹
にしむらしげき

1828〜1902
明治時代の教育家・道徳思想家
下総(千葉県)佐倉藩出身。儒学・蘭学を修め,明治新政府では文部省に出仕し,また明六社創立にも参加。1876年東京修身学社を設立し,'87年日本弘道会に拡大させた。『日本道徳論』を刊行,皇室中心の国民道徳を提唱し,国粋主義の先駆をなした。

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世界大百科事典(旧版)内の西村茂樹の言及

【道徳教育】より

…それは和漢の歴史から材料をとった儒教主義にもとづく修身書であった。また,一時期文部省の編集局長をつとめた《日本道徳論》の著者西村茂樹は,1876年におこした修身学社を87年に日本弘道会と改め,皇室中心主義の国民道徳普及につとめた。このような政府の施策やそれを支持する民間の運動により,欧米風の自由主義道徳やプロテスタントの倫理の教育は一部の私立学校にとどまった。…

【日本道徳論】より

…明治中期の国家主義思想の書。西村茂樹著。1887年刊。…

※「西村茂樹」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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