昭和天皇(読み)ショウワテンノウ

デジタル大辞泉 「昭和天皇」の意味・読み・例文・類語

しょうわ‐てんのう〔セウワテンワウ〕【昭和天皇】

[1901~1989]第124代天皇。在位1926~1989。大正天皇の第1皇子。名は裕仁ひろひと大日本帝国憲法下では唯一の主権者として統治権総攬そうらんしたが、第二次大戦後、神格化を否定する「人間宣言」を発表、日本国憲法成立で、日本国および日本国民統合の象徴となった。生物学の研究でも知られる。

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共同通信ニュース用語解説 「昭和天皇」の解説

昭和天皇

1901(明治34)年4月29日、大正天皇と貞明皇后の第1子として誕生。名は裕仁ひろひと、幼少時の称号は迪宮みちのみや。21(大正10)年に20歳で摂政に就き、26年天皇に即位。24年に結婚した香淳皇后との間に、天皇陛下をはじめ男女7人の子をもうけた。即位後、日本は満州事変などを経て太平洋戦争に突入。45年8月10日の御前会議ポツダム宣言受諾を決断し、15日にラジオによる玉音放送を通じて終戦を国民に告げた。46年の元日付官報で天皇の神格性を否定する「人間宣言」を発表。46~54年には戦災に遭った国民を励ますため、米統治下にあった沖縄県を除く46都道府県を巡幸した。71年に英国など欧州を歴訪、75年には米国を訪問した。89年1月7日、十二指腸乳頭周囲腫瘍(腺がん)のため死去。62年余の在位期間は歴代最長。

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精選版 日本国語大辞典 「昭和天皇」の意味・読み・例文・類語

しょうわ‐てんのうセウワテンワウ【昭和天皇】

  1. 第一二四代天皇(在位一九二六‐八九)。大正天皇の第一皇子。名は裕仁(ひろひと)。大日本帝国憲法下では、唯一の主権者として統治権を総攬したが、第二次世界大戦後、神格化を否定する「人間宣言」を発表、日本国憲法の成立で、日本国および日本国民の統合の象徴となった。生物学の研究でも知られる。明治三四~昭和六四年(一九〇一‐八九

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「昭和天皇」の意味・わかりやすい解説

昭和天皇
しょうわてんのう
(1901―1989)

皇統譜にいう124代天皇(在位1926~1989)。大正天皇の第1皇子で、その在位が昭和の年号で表示される。明治34年4月29日生まれ。母は皇后九条節子(さだこ)、名は裕仁(ひろひと)、幼名は迪宮(みちのみや)。1916年(大正5)立太子のあと、大正天皇の病状悪化のなかで、1921年ヨーロッパ各国を訪問、帰国後の同年11月摂政(せっしょう)に就任した。1924年久邇宮良子(くにのみやながこ)女王(香淳(こうじゅん)皇后)と結婚。1926年12月、大正天皇の死去により皇位を継承して昭和と改元し、1928年(昭和3)11月即位礼を行う。こののち第二次世界大戦期まで、とくに軍事・外交政策に対してはしばしば独自の判断を示し、戦争指導方針を含む国策決定に関与した。二・二六事件のとき、反乱軍鎮圧を強く主張したことは有名。敗戦時には、内大臣木戸幸一らの進言に沿って、ポツダム宣言受諾を決定した。1946年(昭和21)元日の詔書で天皇の神格性を否定し(人間宣言)、アメリカの方針によって戦犯訴追を免れる。1947年施行の日本国憲法に基づき、その地位は日本国と日本国民統合の象徴に変わったが、占領期にはマッカーサーとの会見などを通じて、独自の政治的影響力を保持した。戦後は生物学研究者として知られるようになり、編・著書に『相模湾後鰓類図譜』『那須の植物』などがある。1971年ヨーロッパ、1975年にアメリカを訪問した。1986年在位60年記念式典が挙行され、日本史上最長の在位を記録。1989年(昭和64)1月7日死去。追号は昭和天皇。

[赤澤史朗]

『宮内庁編『昭和天皇御製集』(1991・講談社)』『升味準之輔著『昭和天皇とその時代』(1998・山川出版社)』『榊原夏著『マッカーサー元帥と昭和天皇』(2000・集英社)』『高橋紘著『象徴天皇の誕生――昭和天皇と侍従次長・木下道雄の時代』(角川文庫)』『黒田勝弘・畑好秀編『昭和天皇語録』(講談社学術文庫)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「昭和天皇」の意味・わかりやすい解説

昭和天皇
しょうわてんのう

[生]1901.4.29. 東京
[没]1989.1.7. 東京
第124代天皇(在位 1926~89)。大正天皇第1皇子,母は藤原節子(〈さだこ〉のちの貞明皇后)。名は裕仁,幼名は迪宮(みちのみや)。在位期間は日本史上最長を記録した。
青山の東宮御所で誕生し,学習院および東宮御学問所に学ぶ。その間,1916年に立太子礼。1921年3~9月,日本の皇太子として初めての外遊でヨーロッパを訪問。帰国後の 11月,大正天皇重病のため摂政宮に就任し,代わって公務につく。1924年1月,久邇宮家の第1王女,良子(〈ながこ〉のちの香淳皇后)と結婚。2男5女をもうけた。
1926年12月25日,大正天皇崩御により践祚,「昭和」と改元,1928年11月即位。1931年9月満州事変,1936年二・二六事件,1937年7月日中戦争を経験。1941年12月太平洋戦争の開戦に際し「宣戦の詔書」を発する。
多くの歴史学者が,当時の憲法で天皇は最高決定権をもっていたが,実際には政府や軍が決定した方針を承認するにすぎなかった,と指摘している。天皇はドイツ・イタリアとの三国同盟締結やアメリカ合衆国との開戦について深く憂慮していたにもかかわらず,政府や軍を牛耳っていた軍国主義者たちの前には無力だった,という主張である。その一方で,天皇は 1931年の満州事変から第2次世界大戦にいたるまでの日本の拡張主義の国策決定に関与した,と考える学者もいる。
いずれが真実であったにせよ,本土空襲が激化し敗戦がまぎれもない現実となった 1945年,日本の上層部は降伏受諾派と死を覚悟の本土決戦派に大きく二分され意見が対立した。天皇は平和を第一に考え,この論争に決着をつけた。1945年8月,天皇はラジオを通じて「終戦の詔書」を放送(玉音放送),ポツダム宣言受諾,終戦を国民に伝えた。次いで 1946年1月1日には「新日本建設に関する詔書」でみずからの神格性を否定した(人間宣言)。1947年5月施行の日本国憲法で日本の立憲君主制が確立され,「天皇は日本国および日本国民統合の象徴」と規定された。皇室と国民の距離を縮めるために,天皇は日本各地を巡幸し,皇室の写真や記事の出版を許した。1971年9月には歴代の天皇としては初のヨーロッパ訪問。1975年にはこれも初のアメリカ訪問。
学者天皇としても知られ,生物学を好み,『相模湾産後鰓類図譜』『相模湾産海鞘類図譜』『那須の植物』などの著書がある。
1989年崩御,皇太子明仁が皇位についた。

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朝日日本歴史人物事典 「昭和天皇」の解説

昭和天皇

没年:昭和64.1.7(1989)
生年:明治34.4.29(1901)
昭和1(1926)年から同64年まで在位。皇太子明宮嘉仁親王(大正天皇)と皇太子妃節子(貞明皇后)の第1皇子。明治天皇から裕仁と命名され,迪宮の称号を賜った。川村純義家に養育され,大正3(1914)年学習院初等科を卒業し,東郷平八郎を総裁とする東宮御学問所で,白鳥庫吉,服部広太郎,杉浦重剛など一流の学者,教育者を教師として,10年まで学んだ。大正4年に立太子の礼,6年皇太子妃に久邇宮良子が内定,8年成年式が行われた。大正天皇の病状の悪化とともに,裕仁親王に対する期待は大きく,皇太子として最初のヨーロッパ訪問(特に英皇室との親善)が10年に実現。久邇宮家の色盲問題で婚約の変更を求める運動もあったが,この出発前に内定通りという決定がなされた(宮中某重大事件)。帰国後摂政に就任し,13年結婚。この間12年台湾行幸,年末アナキストによる狙撃事件もあったが,元老西園寺公望,牧野伸顕内大臣,一木喜徳郎宮内大臣らリベラルなグループによる補佐を受け,政務を執った。 15年大正天皇の死去とともに践祚,元号が昭和と改められた。昭和2(1927)年の大正天皇の大葬,そして3年京都で御大典が挙行された。この前後,天皇の心労は陸軍の行動で,張作霖爆殺事件に関しての4年の田中義一総理に対する叱責はその現れであった。その後も軍部に対する疑念は大きく,ロンドン条約,満州事変における天皇の行動もその延長線上にあった。「現状打破」をめざす「革新派」は,天皇側近を「君側の奸」として攻撃し,2・26事件(1936)が起きた。このとき信頼する側近を多く殺害された天皇は激怒して,その鎮圧を強く要望した。12年に始まる日中戦争についても,また16年の日米開戦についても,強く躊躇の態度を表明したが,正規の手続きによって裁可を求められたものは最終的には裁可を与えた。20年8月ポツダム宣言受諾か否かをめぐり内閣,統帥部が分裂し,態度決定ができなかったとき,はっきり受諾の意思を表明,最終決定に決定的な役割を果たした。8月15日の玉音放送は国民一般が天皇の生の声を聞いた最初であり,スムーズな降伏に大きな役割を果たした。 占領下天皇大権は連合国軍総司令官の下に置かれ,9月27日天皇はマッカーサーを訪問,その際の,背の高いマッカーサーの脇に並んだ小柄の天皇の写真は国民にショックを与えた。しかしこのときマッカーサーは天皇の態度に感銘を受けたといわれる。21年1月いわゆる「人間宣言」を発した天皇は全国各地を巡幸し,再建に働く国民を激励し,また熱烈な歓迎を受けた。22年の日本国憲法で「国民統合の象徴」と位置づけられ,以後その役割を忠実に果たした。皇后と共に46年にはヨーロッパを,50年にはアメリカを訪問。62年以来入退院を繰り返し,64年十二指腸乳頭周囲腫瘍で崩ず。翌年大葬が行われた。相撲観戦を好み,また若いときから生物学を学び『相模湾産ヒドロ虫類』など8冊の著書がある。

(伊藤隆)

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百科事典マイペディア 「昭和天皇」の意味・わかりやすい解説

昭和天皇【しょうわてんのう】

在位1926年―1989年。名は裕仁(ひろひと)。大正天皇の第1皇子として4月29日誕生。幼名は迪宮(みちのみや)。1916年立太子。1921年3月より約半年ヨーロッパ各国を訪問,同年11月摂政となり,1924年1月久邇宮良子(くにのみやながこ)女王と結婚。1926年12月25日大正天皇の死去により践祚(せんそ),昭和と改元。1928年11月即位礼を挙行。1945年8月第2次大戦終結の詔書を放送(玉音放送),1946年1月1日人間天皇を宣言して神格化を否定。1947年日本国憲法によって国の象徴となった。生物学に造詣が深く,《相模湾産後鰓類図譜》などの著書がある。1989年1月7日死去,同日皇太子明仁が天皇即位。元号は平成と改まる。2005年11月東京都立川市に昭和天皇記念館が開館。
→関連項目児玉幸多桜田門事件竹下登内閣貞明皇后虎ノ門事件良子

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改訂新版 世界大百科事典 「昭和天皇」の意味・わかりやすい解説

昭和天皇 (しょうわてんのう)
生没年:1901-89(明治34-昭和64)

第124代に数えられる天皇。在位1926-89年。名は裕仁(ひろひと),幼名は迪宮(みちのみや)。大正天皇の第一子。母は皇后九条節子(さだこ)。1916年11月立太子礼を行う。21年3~9月ヨーロッパ各国を回り,11月摂政となる。23年12月難波大助に狙撃されたが無事(虎の門事件)。24年1月久邇宮良子(くにのみやながこ)女王と結婚。26年12月大正天皇の死にともない践祚し,昭和と改元する。28年11月天皇即位礼を挙行。第2次大戦まで戦争指導に関する最高責任者の地位にあったが,東京裁判において戦争責任を問われることはなかった。46年1月1日に天皇人間宣言(〈新日本建設に関する詔書〉)を行う。同年2月神奈川県をはじめに各地を巡幸。47年11月日本国憲法で,天皇は日本国の象徴とされる。71年には半世紀ぶりにヨーロッパを外遊し,75年アメリカを訪問した。76年11月には日本武道館で天皇在位50年記念式典を行う。戦後は生物学の分類研究にいそしみ,《相模湾産後鰓類(こうさいるい)図譜》《那須の植物》などの編・著書がある。日本史上最長の在位を記録した。
執筆者:

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20世紀日本人名事典 「昭和天皇」の解説

昭和天皇
ショウワテンノウ

大正・昭和期の第124代天皇



生年
明治34(1901)年4月29日

没年
昭和64(1989)年1月7日

出生地
東京・青山東宮御所

学歴〔年〕
東宮御学問所

主な受賞名〔年〕
白バラ勲章大十字章〔昭和61年〕

経歴
御名裕仁(ひろひと)。大正天皇の第一皇男子。母は貞明皇后。ご幼少時の称号迪宮(みちのみや)。大正10年11月25日摂政ご就任。13年1月26日久邇宮良子女王とご結婚。15年12月25日、大正天皇の崩御とともに皇位(124代)をご継承。昭和16年米英両国に宣戦の詔書、20年には終戦の詔書をラジオ放送。戦後は、全国を巡幸して国民を激励、新憲法で“国民統合の象徴”と定められ、政治的権能を離れた。62年9月膵臓疾患で手術を受けられ、1年4月の闘病生活ののち64年1月7日崩御。歴代天皇中最長寿、在位63年も最長記録である。生物学にご造詣が深く、専門は海洋生物のヒドロゾアの分類学的研究。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「昭和天皇」の解説

昭和天皇
しょうわてんのう

1901.4.29~89.1.7

在位1926.12.25~89.1.7

大正天皇の第1皇子。母は貞明(ていめい)皇后。名は裕仁(ひろひと),幼称は迪宮(みちのみや)。1912年(大正元)皇太子となり,21年大正天皇の病状悪化により摂政に就任。24年には久邇宮邦彦(くによし)王の長女良子(ながこ)と結婚し,26年(昭和元)12月大正天皇の崩御により皇位を継承する。張作霖爆殺事件で田中義一首相を叱責したことが内閣総辞職をもたらし,2・26事件では反乱軍に激怒し鎮圧を命じた。戦争の拡大を憂慮し,対米戦争にも消極的だったが,これを防ぐことができず開戦に至る。45年8月御前会議で戦争継続の主張を退けて終戦を決断。46年神格化を否定して人間宣言を行い,47年に日本国憲法で国民統合の象徴とされた。生物学者としても著名。89年1月崩御。昭和天皇と追号された。御陵は武蔵野陵。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「昭和天皇」の解説

昭和天皇 しょうわてんのう

1901-1989 第124代天皇。在位1926-89。
明治34年4月29日生まれ。大正天皇の第1皇子。母は貞明皇后。大正10年摂政。父の死により皇位をつぎ,昭和と改元。恐慌や第二次世界大戦そして敗戦,連合国による占領と難局に直面。昭和21年みずから天皇の神格を否定する「人間宣言」をし,日本国憲法により国民統合の象徴となる。生物学者としても知られる。昭和64年1月7日死去。87歳。墓所は武蔵野陵(むさしののみささぎ)(東京都八王子市)。学習院初等科卒。幼称は迪(みちの)宮。諱(いみな)は裕仁(ひろひと)。著作に「那須の植物」「相模湾産後鰓類(こうさいるい)図譜」など。
【格言など】わが国のたちなほり来し年々にあけぼのすぎの木はのびにけり(昭和62年歌会始)

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367日誕生日大事典 「昭和天皇」の解説

昭和天皇 (しょうわてんのう)

生年月日:1901年4月29日
大正時代;昭和時代の皇族
1989年没

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