東亜同文書院(読み)とうあどうぶんしょいん

精選版 日本国語大辞典 「東亜同文書院」の意味・読み・例文・類語

とうあどうぶん‐しょいん‥ショヰン【東亜同文書院】

  1. 中国上海にあった日本大学。明治三三年(一九〇〇東亜同文会南京に創設した南京同文書院に始まる。同年上海に移転し翌年改称。大正一〇年(一九二一専門学校、昭和一四年(一九三九)大学となる。第二次大戦後、東亜同文会の解散により消滅

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「東亜同文書院」の意味・わかりやすい解説

東亜同文書院 (とうあどうぶんしょいん)

東亜同文会が上海に設立した学校。1900年5月中国の民俗言語・文化に親しみ,日中両国の親善に参画する人材を育成する目的で設立した南京同文書院が前身である。しかし,義和団事件激化により,すぐに上海に移転し,翌01年には東亜同文書院と改称して,修業年限3年,政治科商務科からなる高等の学校として教育活動を始めた。また,民間有志の拠金や政府の補助金を得,中国留学生のために,02年東京神田に東京同文書院も設けた。21年に正規の専門学校に,さらに39年大学令による東亜同文書院大学となる。全国から府県費生や委託生を募集し,全寮制の自治生活,大陸調査旅行など独特の教育を展開した。第2次世界大戦後の廃校まで4000人以上の卒業生を送り出し,中国侵略を推進する機能をになった。廃校後,その財産図書などは私立愛知大学に寄付された。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

百科事典マイペディア 「東亜同文書院」の意味・わかりやすい解説

東亜同文書院【とうあどうぶんしょいん】

東亜同文会が1901年上海に設立した学校。日中親善のための人材養成を目的とした南京同文書院の後身だが,日本の中国進出のための中堅幹部を養成する機能を担った。1921年専門学校,1939年大学となる。商務科(一時農工・政治科も設置)を置く。第2次大戦後廃止されるまで,卒業生約5000。
→関連項目杉浦重剛

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

山川 日本史小辞典 改訂新版 「東亜同文書院」の解説

東亜同文書院
とうあどうぶんしょいん

東亜同文会が中国に設立した学校。「支那保全」を目的とする東亜同文会が1900年(明治33)に開設した南京同文書院を前身とし,上海移転をへて01年に開校。はじめは修業年限3年で政治・商務の2科で構成され,おもに日本政府の補助金と各府県からの留学生派遣費で維持された。21年(大正10)に専門学校として認可され,39年(昭和14)に大学に昇格。日本の敗戦後,資産の一部が愛知大学に継承された。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「東亜同文書院」の意味・わかりやすい解説

東亜同文書院
とうあどうぶんしょいん

東亜同文会

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の東亜同文書院の言及

【清】より

…支那及び朝鮮の時事を討究し実行を期す。国論を喚起す〉の綱領をもつ東亜同文会によって上海に設立された東亜同文書院は,戦前日本における最初の在外文化施設であるが,そうした時代の変化と切り離して考えることはできない。同校は太平洋戦争終戦の年まで存続,その卒業生は実業界,外交界,学界,ジャーナリズムなどにおいて中国と深くかかわった。…

※「東亜同文書院」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android