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李如松 りじょしょうLi Ru-song; Li Ju-sung

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

李如松
りじょしょう
Li Ru-song; Li Ju-sung

[生]?
[没]万暦26(1598)
中国,の武将。遼東鉄嶺衛の人。李成梁の長子。字は子茂。号は仰城。万暦 20 (1592) 年寧夏にボバイの乱が起り,提督となってこれを平定。続いて豊臣秀吉が侵略を開始した朝鮮に明の第2次援軍4万を率いて出動 (→文禄・慶長の役 ) ,同 21年1月に日本軍と交戦して平壌を奪回したが,碧蹄館の戦いで大敗し,平壌に引返し日本軍と和議を続けた。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

李如松 り-じょしょう

?-1598 明(みん)(中国)の武将。
1592年寧夏のボバイの反乱を鎮圧し,都督となる。豊臣秀吉の朝鮮出兵に対して明・朝鮮連合軍をひきいてたたかう。1593年平壌で小西行長の軍をやぶるが,碧蹄館で小早川隆景軍に大敗した。1597年遼東総兵官となる。万暦26年4月侵入した夷族とたたかい死去。遼東鉄嶺衛出身。字(あざな)は子茂。号は仰城。

出典|講談社
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世界大百科事典 第2版の解説

りじょしょう【李如松 Lǐ Rú sōng】

?‐1598
中国,明末の武将。李成梁の長子。字は子茂。鉄嶺(遼寧省)の人。父の功績のおかげで都指揮同知となった。1592年(万暦20)ボハイ(哱拝)が寧夏で乱を起こすと提督陝西討逆軍務総兵官となり,苦戦ののち乱を平定した。同年壬辰倭乱(文禄の役)がおこると防海禦倭総兵官として朝鮮に出兵し,93年正月,平壌を守る小西行長軍を破り南下したが,碧蹄館で小早川隆景の軍に敗れた。4月,日本軍が京城を撤退したので京城に入り,12月撤兵帰国した。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
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大辞林 第三版の解説

りじょしょう【李如松】

?~1598) 中国、明末の武将。豊臣秀吉の朝鮮侵略に際し、兵四万を率いて朝鮮に出兵。小西行長の軍を破ったが、小早川隆景の軍に大敗。

出典|三省堂
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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

李如松
りじょしょう
(?―1598)

中国、明(みん)末の武将。遼東鉄嶺(りょうとうてつれい)(遼寧)の人。字(あざな)は子茂。李成梁(りせいりょう)の子。1592年、提督陝西(せんせい)討逆軍務総兵官として寧夏(ねいか)でボバイの乱を平定して功をたて、都督に昇進した。同年に起きた壬辰(じんしん)の乱(文禄(ぶんろく)の役)には防海禦倭(ぼうかいぎょわ)総兵官に任ぜられ、薊(けい)、遼、保定、山東の諸軍を率いて朝鮮に出兵した。翌年5月和議を装って平壌を急襲し、小西行長(ゆきなが)軍を破った。小西軍は防戦に努めたが、勝ち目なく龍山に退却した。如松は追撃して漢城(ソウル)に向かったが、碧蹄館(へきていかん)の戦いで小早川隆景(たかかげ)軍に大敗を喫した。97年遼東総兵官に任ぜられ、翌年4月土蛮の侵入を迎え撃ち、その巣窟(そうくつ)をついたが、戦死した。[川越泰博]

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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