日本大百科全書(ニッポニカ) 「村松愛蔵」の意味・わかりやすい解説
村松愛蔵
むらまつあいぞう
(1857―1939)
自由民権運動家、政治家。安政(あんせい)4年3月2日、三河(みかわ)国(愛知県)の田原藩士の家に生まれる。1872年(明治5)上京し当時築地(つきじ)にあったニコライ塾に学び、その後外務省所管の魯語(ろご)学校(のち東京外国語学校)に入学し、ロシア語を学ぶかたわら、ロシア思想にも触れた。郷里に戻り、民権政社「恒心社(こうしんしゃ)」を組織し、自由党に投じて活躍した。1881年名古屋に出て、『愛岐日報』の主筆となり、同紙上に「日本国憲草案」を発表するなど、自由民権の説を主張した。自由民権運動が激しさを増した1884年には、ロシア虚無党に倣い、同志を募って挙兵を企てたが、未然に発覚し捕らえられ、翌1885年国事犯として軽禁獄7年の刑に処せられた(飯田(いいだ)事件)。憲法発布による大赦で出獄後は『扶桑(ふそう)新聞』記者として活躍し、その間、朝鮮半島に渡り、またヨーロッパの政情を視察するなどした。衆議院議員を計4期務めたが、1909年(明治42)立憲政友会にあった彼は、日糖疑獄事件に連座し、ふたたび投獄された。出獄後の1910年1月に救世軍兵士となり、後半生は宗教家として社会事業に尽力した。昭和14年4月11日死去。
[日比野元彦]
『寺崎修著『自由民権運動の研究――急進的自由民権運動家の軌跡』(2008・慶応義塾大学出版会)』