1858年(安政5)江戸幕府がアメリカをはじめ西洋先進5か国との間に締結した修好通商条約の総称。1854年(安政1)に締結された日米和親条約に基づき、1856年アメリカの初代駐日総領事として伊豆下田に着任したハリスは、幕府に対し、さらに通商条約の締結を迫った。おりからアロー戦争で清(しん)国が西洋列強に連敗していた事情も働いて、幕府当局は下田奉行(ぶぎょう)井上清直(きよなお)らを全権としてハリスとの間に条約締結の交渉を開き、1858年1月妥結の運びとなった。しかるに、鎖国攘夷(じょうい)の方向をとりつつあった朝廷は、条約案に対する勅許を容易に与えず、この間、大老に就任した井伊直弼(いいなおすけ)は、ハリスの要請に屈し、独断をもって条約締結を決意し、その命令を受けて、井上全権らは6月19日江戸湾に停泊の米艦ポーハタン号上でハリスとの間に調印を行った。勅許を待たずになされたので、「安政の仮条約」とも称せられる。
通商条約は全文14条からなり、貿易章程が付されている。その内容は、江戸、大坂の開市とその期限、先に和親条約により開港していた下田、箱館(はこだて)2港に加えて、神奈川、長崎、新潟、兵庫の開港とその期限(ただし神奈川開港に伴い、下田港は閉鎖された)、自由貿易制、および開港場における居留地設定と遊歩区域、両国民間における信教の相互尊重などがそれぞれ規定されていた。とりわけこの条約の特徴としては、片務的領事裁判制(第6条)、片務的協定税率(付属貿易章程第7則)があげられる。この結果、日本でのアメリカ人犯罪は日本の国法で取り締まることができず、また、日本に輸入されるアメリカ商品に対して日本側は自主的に関税をかけられないので、日本の主権維持や資本主義の発達に著しい障害となった。日本側にとってこのように不利な内容をもつ同じ不平等条約は、相次いで同年7月(新暦8月)オランダ、ロシア、イギリス、さらに9月フランスの各使節との間に、それぞれ江戸で調印された。勅許を待たない井伊の専断は、朝廷と結び付いた尊王(そんのう)攘夷運動を刺激する結果となり、安政の大獄(たいごく)(1859)、井伊暗殺(桜田門外の変。1860)に始まる国内動乱のきっかけを招いた。この仮条約は、翌1859年(安政6)ないし1860年(万延1)にいずれも批准書を交換しているが、動乱の渦中で開港延期が不可避となり、幕府は対策に苦慮した。勅許が与えられたのは1865年(慶応1)10月のことで、以後この条約の効力は急速に実現されることになる。
[田中時彦]
『石井孝著『日本開国史』(1972・吉川弘文館)』▽『浜屋雅軌著『開国期日本外交史の断面』(1993・高文堂出版社)』▽『松本健一著『日本の近代1 開国・維新』(1998・中央公論社)』▽『井上勲編『日本の時代史20 開国と幕末の動乱』(2004・吉川弘文館)』
1858年(安政5),幕府が,アメリカ,オランダ,ロシア,イギリス,フランスの5ヵ国と結んだ修好通商条約。58年7月29日(安政5年6月19日),神奈川でアメリカ総領事ハリスと幕府の全権井上清直・岩瀬忠震(ただなり)とが調印した日米条約(日米修好通商条約)を最初として,日蘭条約は8月18日(7月10日),日露条約は8月19日(7月11日),日英条約は8月26日(7月18日),日仏条約は10月9日(9月3日)に調印がおこなわれた。この一連の条約の締結により,鎖国体制を堅持していた日本は,世界資本主義の市場の一環に組みこまれることになった。これらの条約は勅許を得ずに調印されたので,安政仮条約と総称することもある。
条約の個条数は国ごとに異なるが,共通の主な内容は次のとおりである。(1)相互に首都に公使を,開港場に領事を置く。(2)神奈川(横浜),長崎,箱館の3港を59年7月4日(安政6年6月5日),新潟を60年1月1日,兵庫を63年1月1日から開港する。開港場では外国人の居留を認める。(3)江戸を62年1月1日,大坂を63年1月1日から開市する。両地では,商売をおこなう間だけ外国人が逗留することを認める。(4)日本人と外国人とは,役人の干渉を受けることなく自由に品物の売買ができる。(5)関税率は日本と外国とが協定し,条約で定める。(6)外国の貨幣は,日本貨幣と同種同量で通用する。(7)日本で罪を犯した外国人は領事の審理を受け有罪の場合は外国の法律でもって領事が処罰する。(8)条約を締結している国の一つが,日本から新たな権利を獲得したときは,これは直ちに条約締結国のすべてに適用される。
(5)(7)(8)の関税率の協定制度,領事裁判権,片務的な最恵国待遇の3条項は,同年,アロー戦争(第2次アヘン戦争)の敗北によって清がロシア,アメリカ,イギリス,フランスの4ヵ国との間に結んだ天津条約の中にも盛りこまれているもので,不平等条約の根幹をなす条項である。明治政府の条約改正の努力によって,この3条項が撤廃され,対等の条約が施行されたのは99年のことであった。条約にしたがって,1859年7月から5ヵ国と貿易が開始された。しかし,貿易にともなって物価騰貴がおこり,また尊王攘夷派の攘夷運動や幕政批判の活動が激しくなったので,幕府は貿易の抑制をはかった。まず60年5月(万延1年閏3月)に,雑穀,水油,蠟,呉服,生糸を生産地から横浜へ直送することを禁じ,江戸問屋経由を命じた(五品江戸廻令)。62年には,外国奉行竹内保徳らをヨーロッパに派遣し,兵庫,新潟の開港と江戸,大坂の開市の期日を,68年まで延期することについての了解を各国からとりつけた。さらに63年からは,アメリカとオランダに対し横浜鎖港の交渉を開始し,64年には外国奉行池田長発らをフランスに送って,横浜鎖港の合意を得ようとしたが,失敗に終わった。このため,アメリカ,イギリス,フランス,オランダの4ヵ国は,日本に条約を厳守させるためには,武力の発動もやむをえないと判断した。4ヵ国の艦隊は,64年9月(元治1年8月),攘夷派の拠点である長州藩の下関を攻撃し,65年11月には大坂湾に集結して,条約勅許が実現するよう朝廷と幕府とに圧力をかけた。この結果,65年11月22日(慶応1年10月5日),条約が勅許され,五ヵ国条約は国内においても発効した。
→開国
執筆者:小野 正雄
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…この条約は,天皇の勅許を待つということでその調印をひきのばしていた幕府が,第2次アヘン戦争(アロー戦争)で中国(清朝)を屈服させたイギリス,フランスの大艦隊がそのまま日本に転進して新条約の締結をせまるという情報をハリスからうけて,勅許を待たずにあわてて調印にふみきったものであり,ひきつづき幕府は同年中に,オランダ,ロシア,イギリス,フランスとも同様な修好通商条約の締結を余儀なくされた。これらのいわゆる安政五ヵ国条約では,外交関係のみならず締結各国との自由な通商貿易も規定され,ここに日本の開国は最終的に確定したのである。 これらの条約で日本は,まず首都(江戸)に公使を,開港場に領事を駐在させ,彼ら各国外交代表の職務上の国内旅行権を承認した。…
※「安政五箇国条約」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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