日本大百科全書(ニッポニカ) 「来世観」の意味・わかりやすい解説
来世観
らいせかん
広くは他界観と同様、別世界一般についての観念をもさすが、狭くは人間が死後に住む世界に関する観念を意味する。この場合、来世観は他界観の一様式である。
原始宗教にも死者の住む世界についての観念はあるが、それは来世観のように個々人の死後の運命への顧慮と関連したものではない。死後への個人的顧慮は個人の運命という観念とともに発生する。したがって来世観は、歴史意識や卓越した個人という意識が生じる古代文明において初めて明確な形をとる。古代宗教における来世観は大衆のものではなく、王侯や貴族の葬送の様式にうかがえるものである。彼らの墳墓は、死後も個人として特権的な存在を続けようとする顧慮に満ちている。ミイラ、巨大な墳墓、その豪華な装飾、副葬品や殉教者などの私財は、彼らの来世の存在を保護し、豊かにするものと信じられた。そこでは現世的諸価値が素朴に肯定されており、そうした価値の死後への継続が願われている。古代宗教の生死観では現世と来世は同等の重さをもっており、来世観の中心は不死の観念だったのである。
歴史宗教において初めて来世観は大衆のものになり、現世の倫理を規制する強力な原理となる。仏教をはじめとするインド宗教では、死後、現世での行為の善悪(業(ごう))に応じて、現世と質的に等しい来世でさまざまな生を送るという輪廻(りんね)の観念が成立した。これに対して大乗仏教では、救済者の観念と結び付いて現世と断絶した来世である地獄や浄土の観念が強調された。代表的なのは阿弥陀(あみだ)仏の西方極楽浄土への往生(おうじょう)の思想で、現世での善行や信仰の深さによって死後、浄土または地獄へ行くと信じられた。キリスト教では、終末論的な歴史観と他界観との結合が行われた。すなわち、キリストの再臨後すべての死者が審判の場に引き出され、天国と地獄に振り分けられるとするのである。イスラム教にも同じような最後の審判についての観念がある。キリスト教やイスラム教では、さらに天国や地獄の中間の世界(煉獄(れんごく)・リンボ)が考えられている。来世の運命は審判によって決定されるという観念は古代宗教にもみられるが、歴史宗教のそれはすべての人間に対する平等な倫理的審判となっている。こうした来世観は歴史宗教の教えのなかでもとくに民衆に受け入れられやすいもので、具体的なイメージを伴った神話的来世観が素朴に信じられていた。歴史宗教では来世に時間や空間の中心があり、死後の運命は現世の運命よりはるかに重いものとされた。古代宗教の不死に対して、ここでは再生という観念が来世観の中心であるといえよう。
歴史宗教の近代的な変容形態である近代宗教(プロテスタンティズムなど)では、非神話化によって素朴な来世信仰が弱められ、カルバンの予定説にみられるように、来世への顧慮を拒否した現世的倫理の構築が目ざされた。現世への関心集中という点でより徹底しているのは、近・現代に世界各地で起こった新宗教運動である。とくに日本の新宗教では現世における生命活動の充実が重視され、死後の運命にはあまり顧慮を払わないが、死後人間は宇宙に行き渡る根源的生命(親神・仏など)に融合し、さらにまたさまざまな個別的生命として発現すると信じる見方が一般的である。ここでは来世観が、生命の現世内における永続的発展・拡充の観念にとってかわられているのである。
[島薗 進]