精選版 日本国語大辞典 「来目皇子」の意味・読み・例文・類語 くめ‐の‐おうじ‥ワウジ【来目皇子】 用明天皇の皇子。聖徳太子の同母弟。推古天皇の代に、将軍として新羅(しらぎ)征伐に向かう途中、筑紫で病没。推古一一年(六〇三)没。 出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例 Sponserd by
改訂新版 世界大百科事典 「来目皇子」の意味・わかりやすい解説 来目皇子 (くめのみこ)生没年:?-603(推古11) 用明天皇の皇子。母は穴穂部間人皇女で,聖徳太子の同母弟。《日本書紀》によれば602年(推古10)2月,撃新羅将軍として諸神部および国造,伴造ら2万5000の軍を授けられ,4月筑紫に至るが,6月病に臥して征討を果たさぬまま,翌年2月に没した。《上宮記》逸文には久米王とあり,敏達天皇王女の由波利王をめとり,男王,星河女王,佐富が生まれたという。また《姓氏録》左京皇別に登美真人の祖とある。執筆者:川口 勝康 出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報 Sponserd by
朝日日本歴史人物事典 「来目皇子」の解説 来目皇子 没年:推古11(603) 生年:生年不詳 用明天皇と穴穂部間人皇女の子。厩戸皇子(聖徳太子)の同母弟。推古10(602)年,「撃新羅将軍」となり,諸神部および国造,伴造らを率いて筑紫の嶋郡(福岡県糸島郡の北部)に臨んだが,病を得,翌年2月に当地で亡くなる。殯を周防の娑婆(防府市)で行い,のちに河内埴生山(羽曵野市)に葬ったという。死後,異母兄の当麻皇子が代わって将軍となったが,これも妻の死で任を果たすことなくおわった。以上は『日本書紀』の記事であるが,7世紀の王族の一員が外交(軍事)にかかわったことを示す好史料でもある。 (荒木敏夫) 出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報 Sponserd by
デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「来目皇子」の解説 来目皇子 くめのおうじ ?-603 飛鳥(あすか)時代,用明天皇の第2皇子。母は穴穂部間人(あなほべのはしひとの)皇女。聖徳太子の弟。「日本書紀」によると,推古天皇10年撃新羅(しらぎ)将軍に任命され,国造(くにのみやつこ),伴造(とものみやつこ)など2万5000の兵をさずけられる。筑紫(つくし)で渡海準備中病にたおれ,遠征をはたさないまま,推古天皇11年2月4日死去。 出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例 Sponserd by
防府市歴史用語集 「来目皇子」の解説 来目皇子 聖徳太子[しょうとくたいし]の弟で、推古10年(602年)2月に25000人の軍勢を率いて、朝鮮半島の百済[くだら]を助けるために新羅[しらぎ]討伐に向かいました。しかし、翌年の2月、九州にいるときに、病気で亡くなってしまいます。20数歳の若さと推定されます。 出典 ほうふWeb歴史館防府市歴史用語集について 情報 Sponserd by
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「来目皇子」の意味・わかりやすい解説 来目皇子くめのおうじ [生]?[没]推古11(603).2.4. 筑紫用明天皇皇子。母は皇后穴穂部間人皇女。聖徳太子の同母弟。推古 10 (602) 年征新羅将軍となり軍衆を率いて筑紫にいたり,遠征の準備を進めたが,病気により,翌年2月筑紫において薨じた。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報 Sponserd by