日本映画。1953年(昭和28)公開の松竹作品。監督小津安二郎(おづやすじろう)。脚本小津安二郎・野田高悟(こうご)。笠智衆(りゅうちしゅう)と東山千栄子(ちえこ)が演じる尾道(おのみち)に暮らす老夫婦が、息子や娘たちに会うために東京にやってくる。子供たちは両親を温かく迎えるが、親が期待していたほどではなく、ときにはちらっと、邪魔にするような風情も感じさせる。結局一番親身になって世話をしてくれたのは、原節子が演じる、戦死した次男の嫁だった、という物語である。一見堅固な家族が徐々に崩れてゆく不安と、家族愛を維持したいという願いが描かれる。これらは小津安二郎の全作品に一貫する主題だが、『東京物語』はその集大成ともいえる作品である。画面の隅々まで厳密に一定のスタイルで構成され、見事に情感をコントロールした演出によって、普通の人々がそれぞれ実に愛すべき良き人々として、見る者の心に刻み込まれる。世界的に徐々に知られていき、いまでは世界映画史上でも屈指の名作の一本と認められている。
[佐藤忠男]
『井上和男編『小津安二郎作品集4』(1984・立風書房)』▽『山内静夫編『小津安二郎名作映画集10+10 (1)東京物語+落第はしたけれど』(2010・小学館)』
小津安二郎監督の1953年松竹大船作品。白黒スタンダード。脚本は監督自身と名コンビの野田高梧,撮影は《戸田家の兄妹》(1941)以来常連の厚田雄春,音楽はこの作品から常連になる斎藤高順。地方から上京した老夫婦(笠智衆,東山千栄子)が血縁の子どもたちの家に快く迎えられず,逆に戦死した息子の嫁(原節子)にもてなされるという題材は,アメリカ映画《明日は来らず》(レオ・マッケリー監督,1937)に想を得たものといわれるが,召集中の小津はその映画を見ておらず,それは野田高梧の脚本に影響を与えたにとどまる。老境を迎えた両親と壮年に達した子どもたちとの関係はむしろ《戸田家の兄妹》の戦後版といえよう(もっとも,《戸田家の兄妹》そのものもヘンリー・キング監督のアメリカ映画《オーバー・ゼ・ヒル》(1931)の翻案といわれているのだが……)。家族の崩壊が最後の老母の死で確認されるに至る間に,老い,死,孤独,諦念といった主題が厚田雄春の卓抜なカメラワークでみごとに描き出され(とくに,夜明けに訪れる老母・東山千栄子の死のシーンは演出と撮影技法の完ぺきな一致をおもわせる),戦後の小津映画の決算として,海外でも高く評価されている。
執筆者:蓮實 重
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…茂原英雄によるトーキー技術の開発を待ってサイレントを撮り続けたが,《一人息子》(1936)で音響の世界に接し,大船の新撮影所で,新たなカメラマン厚田雄春とともに《戸田家の兄妹》(1941)や《父ありき》(1942)で〈小津調〉を確立。戦後は笠智衆と原節子とを主演に迎えた《晩春》(1949),《麦秋》(1951),《東京物語》(1953)が名高いが,いずれも野田高梧との共同脚本。カラー時代に入っての《彼岸花》(1958)や《秋日和》(1960)では物語性が極度に希薄となり純粋な抽象性に近づくが,同時にかつての大学生が会社重役や大学教授となって登場してナンセンス喜劇の味を回復する。…
…ジャン・ルノアールは,マッケリーを,ハリウッドの監督のだれよりも人間を愛し理解していると評したが,この作品のあとにつくられた家族制度の崩壊の現実の中で老夫婦の哀歓を描いた悲劇《明日は来らず》(1937。小津安二郎監督の《東京物語》(1953)の原典になったといわれる)とともに,マッケリーのヒューマニズムがもっとも純粋に横溢した作品とされる。【柏倉 昌美】。…
※「東京物語」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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