東方村(読み)ひがしかたむら

日本歴史地名大系 「東方村」の解説

東方村
ひがしかたむら

[現在地名]小林市東方

水流迫つるざこ村の北にあり、東は野山のやま(現野尻町)、西は真方まがた村、北は肥後国球磨くま郡。東から北西へ低い山並がめぐり、南西は丘陵部、北には白髪しらが(現熊本県上村)がそびえる。中央を岩瀬いわせ川上流はま川が南へ貫流し、谷之木たにのき川なども南流して南方で岩瀬川に合流する。村名は郷士居住地の麓から東の方に位置することに由来するかとされる(明治三年「小林誌」赤木家文書)。慶長一九年(一六一四)の島津久元宛の知行目録(旧記雑録)には小林のうち「北之東方村」とみえ、九六二石余が宮之城島津家の久元領として宛行われた。寛文四年(一六六四)の諸県郡村高辻帳では表高七八八石余。日向国覚書には「川ハタ」の注記がある。内高は「三州御治世要覧」によれば六一〇石余、弘化二年(一八四五)の小林諸在高頭門附覚帳(大塚家文書)では五九五石余(田三九〇石余・畠二〇四石余)、慶応四年(一八六八)の小林万取調帳(上井家文書)では七三九石余、小林誌では七八八石余。


東方村
ひがしがたむら

[現在地名]深谷市東方・東方町・幡羅町はたらちよう

櫛挽くしびき台地の北東端に位置し、北部は台地崖を境にして利根川沖積低地へ移行する。東は西別府にしべつぷ(現熊谷市)、北はみや谷戸やと村・上増田かみますだ村・本田ほんだ村。村内を中山道が通り、北西辺を丈方じようほう(福川)が流れる。庁鼻和こばなわ城から東の方角にあたるのが村名の由来という。戦国期に深谷上杉氏の所領となり、東方城が築かれた。築造時期は不明であるが、小田原北条氏の支配下では深谷右兵衛兼長・同左兵衛吉教の持城となった(大武鑑)。天正一八年(一五九〇)徳川家康関東入国により松平康長は一万石を宛行われ、東方城を居城とした(三千石以上分限帳「天正慶長諸大名御旗本分限帳」内閣文庫蔵)。慶長六年(一六〇一)康長は関ヶ原の合戦の勲功により一万石を加増されて上野国白井しろい(現群馬県子持村)へ移封、翌年には下総古河藩主となった(「徳川加除封録」など)


東方村
ひがしかたむら

[現在地名]桑名市東方・尾野山おのやま桜通さくらどおり梅園通うめぞのどおり松並まつなみ

現桑名市街地の西部丘陵地およびその山麓一帯にあり、矢田やだ村の北西に位置する。北部は大山田おおやまだ川の北岸に及んでいる。東潟・東県とも書く(久波奈名所図会)。慶長の町割以前は町屋まちや川と大山田川が山麓を巡って流れ、山麓には美濃・尾張への往還道が通っていた。その山麓にある式内尾野神社は舟着ふなつき大明神といわれ、渡船場になっており、付近を小野入江おのいりえという(桑名郡志)。中世の三つの城跡があるが、尾野山城は尾野神社の別当である尾野山正斎坊が築いたとも、建部(あるいは渡部)掃部介の居城とも伝えられ、白山しろやまはな城は近藤右京進の居城、尾畑おばた城は田辺伊勢丸の居城と伝えられる。このうち尾畑城跡は土塁が比較的よく残存している。


東方村
ひがしかたむら

[現在地名]越谷市大成町たいせいちよう相模町さがみちよう東町あずまちよう川柳町かわやなぎちよう

西方村の東、元荒川の右岸に位置する。集落は元荒川の自然堤防と旧利根川の乱流路によって形成された半円形の発達した自然堤防上に集中する。当地には野与党の一族大相模次郎能高の後裔といわれる中村氏がいた(「中村家系図」中村家文書)。その館跡は宅地の造成によりわずかに構堀の一部を残すだけで今はわからなくなっているが、館跡からは文和三年(一三五四)在銘の六字名号板碑をはじめ、貞治六年(一三六七)・応永二〇年(一四一三)・同二九年・寛正四年(一四六三)・享禄三年(一五三〇)在銘など数多くの板碑が発見されている。このほか当地では天文二二年(一五五三)在銘の弥陀三尊図像板碑なども発見されている。


東方村
ひがしがたむら

[現在地名]緑区東方町・折本おりもと町・池辺いこのべ

丘陵がちの地形で、(大熊川)が流れる。殿山とのやま・しこ山・ほしや嶺・へひ谷・狸窪たぬきくぼ長坂ながさかなどの小名がある(風土記稿)。南は川向かわむこう村、東は折本村、北は勝田かちだ村・茅崎ちがさき(現港北区)と接する。勝田村からの中原なかはら道が北部を通り、西隣の池辺村へ抜ける。天正一三年(一五八五)四月一九日の北条氏尭朱印状写(県史三)に「前々岩本豊後召仕自東方之村出現夫」とある。古くは池辺村のうちであったが、分村したと伝え、村名も池辺村のうち東の方にあるために名付けられたという(風土記稿)


東方村
ひがしかたむら

[現在地名]指宿市東方

東西二地域に分れた村。東部分は北から西にかけて西方村、南西は拾町じつちよう村、南は拾弐町じゆうにちよう村、東は海に面し、西部分は北は西方村、西は今和泉いまいずみ池田いけだ村、南は同郷利永としなが村・鳴川なりかわ(現山川町)、東は拾町村・拾弐町村に接する。東部の拾町村境を二反田にたんだ川が東流し、集落は西部の西方村・拾町村境の温湯ぬり木之下きのした玉利たまり地区に集中する。東端の魚見うおみ(二一四・八メートル)東方の田良たら浦は漁港として栄え、密貿易の拠点でもあった。初め拾九町じゆうきゆうちよう村の南部にあたり、延宝二年(一六七四)に拾九町村東方・拾九町村西方となり、享保内検の折に東方村・西方村として分村(指宿市誌)


東方村
ひがしかたむら

新富にいとみ野崎のさき波見はみ付近の肝属川下流右岸一帯に比定される。文永一一年(一二七四)六月一八日肝付兼員(阿仏)は肝付郡弁済使職をその子らに分割して譲与し、同日付の肝付阿仏譲状(喜入肝付家文書)によると、五男兼弘(兼広)に「肝付郡河東弁済使職同田畠山野狩倉等」が譲渡された。この四至は、東は海(「彼牟礼者東方也」と注記される)、西は「郡本河柳谷の流合兼又牟礼」、北は「大河早間松堀切堺」、南は内之浦うちのうら境を限ると記される。「郡本河」は高山川、大河は肝属川と考えられる。この範囲は東方と称されるようになり、その中心は野崎辺りということになった。兼弘は野崎氏の祖とされる(「肝付統譜」同文書)。また高山川西岸は西方にしかたとよばれた。弘安六年(一二八三)一一月一七日、兼弘の兄で惣領の肝付兼石とその子兼藤は兼弘と和与を行い、父阿仏の譲状に任せ、兼弘の領知分について今後いっさい違乱しないことを誓い、宇那伊(東方のうち西方に接する付近か)より下の水田一町は本所当米・万雑公事を止めて兼石方に付し、そのほかの臨時課役を課すことを取決めた(「伴兼石・兼藤連署和与状」肝付文書)


東方村
ひがしがたむら

[現在地名]羽島市桑原町東方くわばらちようひがしがた

市之枝いちのえだ村・石田いしだ村・八神やがみ村の西に位置する桑原輪中内の村。西は長良川に限られる。「濃州徇行記」に「長良川の堤下に民居あり、地卑くして年々潦水の為に田圃敗傷し、洪水の時軒までも水のる故今は堤上へ多く家を徙せり」とある。中世は長岡ながおか庄に含まれていたと推定される。文和元年(一三五二)一二月の橘助家寄進状(宝生院文書)によると長岡庄河東真福しんぷく(宝生院)に一町三反が寄進されたが、そのうち田一町は東方新田にあった。


東方村
ひがしかたむら

現在の多良木町の東部、湯前ゆのまえ町の西部を中心とする扇状地一帯の水田地域で、湯前町に東方の地名が残る。相良家史料によると、宝永年間(一七〇四―一一)幸野こうの溝の普請成就に際し、募集した他村からの三五〇戸の移住者により、多良木・湯前・久米くめの原野が新田化され、東方村と称するようになった(→幸野溝。諸郷地竈万納物寄によれば、安永三年(一七七四)の軒数三九八、うち諸奉公人一三・寺社四・修験道二・郷士一五四・百姓一九〇・又百姓三五、人口一千九七九で、元文三年(一七三八)には水田二六四町三反九畝、その分米一千五二六石五斗余、畠五七町八畝余、その銀四貫二四八匁余、そのほか上羽綿二二三匁余、万銀五八五匁余などを負担している。


東方村
ひがしかたむら

[現在地名]長岡市宮本東方みやもとひがしかた町・青葉台あおばだい一―五丁目

東宮本ひがしみやもと村の南、高田たかだ往来沿いの集落。南西は大積おおづみ村に通じる。西のくろ川対岸は堀之内ほりのうち村。「阿波国徴古雑抄」所収の至徳元年(一三八四)一二月日の那賀郡鮎川村八幡松尾両社什物大般若経奥書に「越(後)州三東郡大積之保東方善応寺住呂宗雄」とあり、大積保東方の遺称地。正保国絵図に村名がみえ、高一九四石余で高田藩領。


東方村
ひがしがたむら

[現在地名]松山市東方町ひがしがたまち

松山平野の南平坦部に位置する農村。東は津吉つよし村、西は荏原町えばらまち村、南は浄瑠璃寺じようるりじ村に、北は村・中野なかの村に接する。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)浮穴うけな郡の項に「東方村 日損所、林有、小川有」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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