西方村
にしかたむら
[現在地名]串間市西方・寺里・西浜
福島川の下流から河口にかけての右岸域に立地し、同川支流の善田川などが流れる。飫肥(現日南市)から南下してきた志布志街道が字上町・中町を通り、西折して今町を経由、隣村の高松村に向かう。中世の櫛間院の中心地で、上町に櫛間城跡がある。今町は浦方・湊として発展、多数の商人が居住した。ほかに上ノ町・桂原・馬卸・郡元(郡本)・唐人町・船倉・風呂屋・岩井田・鹿谷・鍵穴・塩町などの字名がある。
年未詳の長井氏宛櫛間院西方坪付(都城島津家文書)には、「ふなくら」など一四門の一六町六反と浮免六町七反(一二ヵ所)および屋敷一六(うち七ヵ所は「郡本ノふん」)が書上げられている。天正一六年(一五八八)八月、秋月種長は豊臣秀吉から櫛間四〇〇町など計八九八町余を与えられ、同一七年六月吉日の福島院西方之内坪付帳(森家文書)では、四ヵ所の田地六反と居屋敷一ヵ所(一反)が新左衛門の知行となっている。なおこの時期の西方は江戸時代の西方郷とは異なり、南方郷をも含んでいた(一部か全部かは不明)。慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原合戦後、秋月氏は本拠を櫛間に移し櫛間城に拠ったが、同九年再び財部(現高鍋町)に本拠を移した。以後中世の櫛間院の地域は高鍋藩飛地となって福島院とよばれ、当村は西方郷(当村のほか高松村・奴久見村・一氏村を含む)に属した。日向国覚書によると高二千七八六石余。寛文四年(一六六四)の高鍋藩領地覚(隈江家記)、正徳元年(一七一一)の高鍋藩領郷村高辻帳(石井家文書)でも同高。年未詳の福島院中御牧并里牧牛馬焼印改帳(県立図書館蔵)によると、西方郷には焼印三丁が認められていた。
当村は郷庄屋(寛文七年以前は催司と称した)の居村であり、高鍋藩人給帳によると、寛永一五年(一六三八)「福島催司」の西方の万介に知行一〇石、同今町の杢右衛門に三石が与えられており、ほかに「鹿谷口御番衆」として四名(各知行二石)、「岩井田口御番衆」として一名(知行二石)、「福島衆」として「今町老名」三名(各切米二石)が記載されている。
西方村
にしかたむら
[現在地名]越谷市西方・相模町・瓦曾根二丁目・南越谷二丁目・東町・流通団地
瓦曾根村の東、東流する元荒川の右岸に位置し、対岸は小林村。集落は元荒川沿いの自然堤防上を中心に列村状に連なる。自然堤防上の道は江戸時代初頭までの奥州道であったが、のち村の西境に日光道中が新たに造成された。戦国期には東に続く東方・見田方とともに埼西郡大相模郷に属し、元亀三年(一五七二)二月九日岩付(岩槻)城代北条氏繁が当地不動院(別当大聖寺)に宛てた判物(大聖寺文書)に「大摸不動院」、天正一四年(一五八六、ただし干支は丁亥とあり同一五年にあたる)正月八日の太田氏房禁制(西角井家文書)には「大相摸不動坊」とある。また同一九年一一月日の大聖寺宛徳川家康朱印状(大聖寺文書)には「武蔵国騎西郡大佐美郷」とみえる。大相模の称は相模国大山寺(現神奈川県伊勢原市)の不動尊と同木・同作の像を大聖寺不動坊に古くから安置していたためという。江戸時代に入り三村(西方村・東方村・見田方村)に分立。なお当地では嘉暦三年(一三二八)在銘のものをはじめ、元弘三年(一三三三)・延文六年(一三六一)・貞治二年(一三六三)在銘など数多くの板碑が発見されている。
西方村
にしかたむら
面積:三一・八二平方キロ
郡南東部に位置。足尾山塊から東へ延びる尾根の末端部にあたり、西高東低の地形をなす。村域西部の真名子は赤津川とその小支流が形成した谷間を占め、東部は小倉川(思川上流)西岸の氾濫原沖積平野にあたる。北は大倉山・谷倉山などの山を境に栗野町、東は小倉川を挟み鹿沼市・下都賀郡壬生町、南は下都賀郡都賀町、西は栃木市に接する。東部を国道二九三号、東北自動車道、東武日光線が通り、東武金崎駅がある。
縄文時代の遺跡として真名子・元を中心に早期・前期の遺跡が分布し、元に郷長山遺跡などがある。古墳は元の字行人塚にある西方山古墳が古くから知られる。中世には宇都宮氏の勢力圏の西端部にあたり、北の日光山勢力や南の皆川氏との接点となった地域にあたる。一帯は西方郷と称され、宇都宮氏の一族で西方城を築いた景泰以降西方氏を名乗ったのは、当地が宇都宮氏の本拠地の西方に位置することによるといわれる。応永一八年(一四一一)宇都宮持綱は「西方内大和田郷半分」を一向寺(現宇都宮市)に寄進している(一一月八日「宇都宮持綱寄進状」一向寺文書)。同年一二月八日には同郷の諸役が免除された(「宇都宮持綱公寺免除状」同文書)。
西方村
にしかたむら
[現在地名]三島町西方
名入村の北七町余、西方街道に沿う駅所。只見川河岸段丘原に営まれ、小名巣江(巣郷)、端村沼田がある。只見川北岸を通る柳津街道、西の車峠を越えて大石田村や野沢郷(現西会津町)に至る道を分岐し、また只見川に船渡場を設けて檜原村に渡す交通の要衝で、「新編会津風土記」には村の中央に制札場を掲げたとある。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に「西方 四百廿五石八斗三升 御倉入」とある。「異本塔寺長帳」天文一四年(一五四五)条に「会津沼沢山内政家弟左馬允氏信、大沼郡南方邑車峠ニ築城鴫城ト名ヅケココニ住ス」とある。「新編会津風土記」には「村西六町山上にあり、本丸東西七間、南北十五間、二丸東西九間南北十七間」とある。戦国期の給地は一〇〇貫文で、現在の旧西方村と柳津町麻生、西会津町黒沢、新潟県東蒲原郡小川一帯といわれる(会津四家合考)。
西方村
にしがたむら
[現在地名]新見市西方
井村のうち上市の南に位置し、東半部の北は高梁川を挟んで高尾村、南を高梁川の支流西川が流れる。太田・今井・ケ市・為谷・土井・金子・久原・布野原・段・小南・真賀里の集落がある。東城往来が通る。
中世には新見庄に含まれ、地名は同庄の西方・東方に由来。当地には領家方政所・預所辻田方を中心に同庄の惣八幡宮(現江原八幡神社)や善成寺、同庄三職である金子氏や福本氏の屋敷などがあった。文永八年(一二七一)の新見庄領家方里村分正検田取帳案(東寺百合文書)に大田里・宮田里・楡田里・荒張・楢原・横枕・久原・金籠里・辻田・別所・深田・音部里・鳴田里などの当地の地名がみえ、同一〇年の新見庄西方麦畠検注取帳(同文書)は大田の分が残っている。大田は郷名でもよばれ、文明一四年(一四八二)と推定される一二月二二日の山田具忠書状(同文書)に「新見庄之事、国衙物忿未静候、去月廿八日も大弓矢にて候、大田郷放火ニ成候」とある。
西方村
にしかたむら
[現在地名]高梁市中井町西方
川面村の北、松山川(現高梁川)の支流佐伏川東岸および津々川流域に広がり、佐内・庄屋谷・西本・西・上野・井戸・大草・丑手・毛作・花木・鍛冶屋・市場・柴倉・新市などの集落が点在。川面村から秋葉峠を越えてきた新見往来が市場・上野を経て草間村(現新見市)へ続く。寛永備中国絵図に村名がみえ、高五八七石余は松山藩領(以後の領主の変遷は松山西村に同じ)、一五石は定光寺領。正保郷帳でも同高で、雑木少・柴山中・芝草山小とあり、枝村に柴倉・上野・牛手・津々・花木・河下の六村を記す。元禄八年(一六九五)の旧松山領新高帳(羽場文書)では古高一千二三一石余・新高一千五七八石余。
西方村
にしかたむら
[現在地名]菊川町西方
堀之内村・潮海寺村の西、菊川支流の西方川上流域に発達した村。中世は河村(庄)に含まれ、村名は同庄の東方・西方に由来すると推定される。地内の小地名に公文名(雲明)がある。永禄一二年(一五六九)一月一二日、徳川家康は河村のうち西方九〇貫文を大村高信同心の奥山助六郎に本知行地として安堵している(「徳川家康判物写」御家中諸士先祖書)。天正一七年(一五八九)七月七日には徳川家七ヵ条定書(写、御庫本古文書纂)が「にしかたの郷」に下されている。慶長四年(一五九九)八月の城東郡西方郷(村)御縄水帳(大嶽家文書)三冊が伝存し、それによると高一千三五四石余。
西方村
にしがたむら
[現在地名]綾部市西方町
志賀村の西北部にある。
康永三年(一三四四)七月の妙法院文書に新熊野社(現京都市東山区)領に吾雀庄三ヵ村として中村・向田村とともに西方村の名がみえる。また寛正二年(一四六一)の何鹿郡所領注文(安国寺文書)にも吾雀の次に「同西方」とあり、「北野社家日記」明応元年(一四九二)一〇月四日条には「吾雀西方領家半分」安堵のことが記される。
正保二年(一六四五)の山家藩「御領分古高」(「菅沼謙蔵手控」木下家蔵)に「四百石 西方村」とあり、山家藩主谷氏の一族旗本上杉谷氏領分にも「四百弐拾石 西方村」と記される。
西方村
にしがたむら
[現在地名]金井町千種 西方
新保川の東側の台地上にある。北は丸つぶりダムを経て金北山に通じる。南は新保村、東は横谷村、西は新保川を挟んで大和田村。康暦二年(一三八〇)六月二日の室町将軍家(足利義満)下文写(椎泊本間文書)に「新宮保西方三分弐」などが本間直泰に安堵されており、当地は、新宮保に属した。
元禄七年(一六九四)の検地帳(西方区有)によると、地字蔵太郎屋敷・大柳・うり田・谷地・お花崎・新保城・はしづめ・うしがほね・のぶざわの田畑は、現在の尾花崎にある金井小学校南の通称沖に分布しており、村が尾花崎沖から上がってきたという伝えをうらづける。
西方村
にしかたむら
[現在地名]清水市庵原町
嶺村・西窪村の北西、庵原川の西岸一帯を占め、東は同川を隔てて原村、西は山原村。かつて当地一帯は「和名抄」にみえる廬原郷の地で、同郷が庵原川を境に東西に分れた際、西方とよんだことが地名の由来という(駿河志料・庵原郡誌)。元亀二年(一五七一)一二月、朝比奈信置は伊勢神宮御師亀田大夫に「庵原郷西方」のうち一二貫文を寄進している(同年一二月吉日「朝比奈信置寄進状写」勢州御師亀田文書)。同三年三月一二日、信置は石工左衛門五郎に同じく庵原西方のうち五貫文を与えている(「朝比奈信置判物写」青木文書)。
寛永九年(一六三二)の徳川忠長改易後は幕府領であったと思われる。承応二年(一六五三)一部が旗本細井領となり、国立史料館本元禄郷帳では細井・青山・天方の旗本三氏の相給(ほかに地内の曹洞宗一乗寺領がある)、その後安永七年(一七七八)に旗本秋山領が設定され、幕末には幕府領と旗本細井領・同秋山領の三給であった(「寛政重修諸家譜」・旧高旧領取調帳など)。
西方村
にしかたむら
[現在地名]三春町西方
大滝根川の北岸にあり、蛇沢村の西、鷹巣村の南。大滝根川の河岸段丘上に縄文―弥生時代の西方前遺跡がある。永禄四年(一五六一)六月二三日の熊野山新宮年貢帳(仙道田村荘史)では西大越、天正一八年(一五九〇)一〇月九日の熊野新宮領差出帳(片倉文書)では「にしかた大越」と記され、年貢は六段・五〇〇文。正保二年(一六四五)の田村家内古館帳(西方館中世城館跡発掘調査報告書)には「西方村 三春より一り半 館主大越事千葉紀伊」「下大越村 三春より三り廿丁 館主大越紀伊 西方より是へ移り是より上大越へ移り」とあることから大越館(現大越町)に対して西方とよんだものであろう。
西方村
にしかたむら
[現在地名]指宿市西方
東方村・拾町村の北に位置し、北東は海に臨む。中央部を湊川が東流し、宮ヶ浜で海に注ぐ。指宿郷の中心地で、宮ヶ浜に地頭仮屋が置かれ、谷山筋沿いに郷士が集住する麓が形成されていた。宮ヶ浜には浦町も形成されており、東部の尾掛浦とともに重要な港湾であった。初め拾九町村の北部にあたり、分村の経緯は東方村と同じ。延享元年(一七四四)に北西部が新西方村として分村し、今和泉郷に編入された(指宿市誌)。「三州御治世要覧」に村名がみえ、延享頃の高二千九八一石余。旧高旧領取調帳では高二千四五八石余。延享三年の指宿西方村検地竿次帳写(黎明館蔵写本)によれば、反別は畑五〇町余・屋敷四町一反余、人数は男一五二・女一四〇、馬八六、門数五・屋敷数四。
西方村
にしかたむら
[現在地名]桑名市西方・青葉町・汐見町・梅園通・松並町・桜通・霞町・立花町・神楽町・筒尾・大山田
現桑名市街地の西部丘陵地および大山田川沿岸にあり、東方村の西にある。中心部は丘陵上のため田地はなく畑地が多いが、大山田川沿岸にある枝郷の坂之下・奥新田は田地が多い。丘陵上には古代遺跡が多く、西方台地B遺跡・高塚山下遺跡・西方古窯跡・西方廃寺跡などがある。いずれも未調査であるが、西方廃寺は東明山海善寺とよばれ、天平一二年(七四〇)に聖武天皇が僧行基に命じて建立させたと伝えられる(桑府名勝志)。
西方村
にしかたむら
[現在地名]川内市西方町
高城郷湯田村の西にあり、北は出水郡大川村(現阿久根市)、西は外海に面する。紫尾山系の西麓が海に落込む所で、海岸部は断崖となっている。北寄りを西方川が南西流して海に入る。南部で東の湯田村から入った出水筋は西方海岸へ抜けたあと断崖縁を北上している。永禄一二年(一五六九)冬東郷重尚は島津氏に降り、このとき東郷氏から島津氏へ進められた所領のうちに西方が含まれていた(入来院氏系図)。翌一三年当所などは島津氏から薩州家の島津義虎へ宛行われた(「箕輪伊賀覚書」「島津中務大輔家久譜」旧記雑録など)。
西方村
にしかたむら
[現在地名]羽茂町大橋
羽茂平野西部と台地の開析河川流域に水田がある。西部は洪積台地で小比叡村(現小木町)に接する。南の清士岡村とは集落が入組む。北は村山村、東は羽茂本郷村・大石村。羽茂川下流域には条里的遺構がみられた。河道は現在は直流しているが、旧河道は東に曲流していた。旧社名八王寺権現の草刈神社の六月一五日例祭には、周辺一六ヵ村から屋台などが奉納される。このとき当村の屋台は、早朝御輿渡御の先導となるところから、羽茂本間氏地頭の時代には、これら村々の親村であったと考えられる。
西方村
にしがたむら
[現在地名]阿南市長生町
本庄村の西に位置し、北は岡川を挟んで岡村。村内を南北に土佐街道が通る。西潟とも記され、里として川崎・南分・中条分がある(阿波志)。慶長二年(一五九七)の分限帳に細山主水佐知行分として那西郡西方村五〇石、岩田五左衛門知行分として同郡西方二二一石余とみえる。慶長期のものと推定される国絵図には「にしかた」と記される。寛永七年(一六三〇)の知行割符帳(蜂須賀家文書)によると、村瀬将監は西方村二二四石余(人数一五)など都合一千石を知行している。
西方村
にしがたむら
[現在地名]東和町大字西方
屋代島の中央やや東寄りにそびえる白木山の北麓に広がり、南は外入村・地家室、西は油良村・安下庄(現橘町)、北東は平野村と接し、北・南西・東南部は海に面する。
近世初頭には外入・地家室・沖家室島、水無瀬島(現大水無瀬島)、小水無瀬島は西方村の支村であった(注進案)。慶長一五年(一六一〇)の検地帳には「西方」、「地下上申」に西方村と記される。
西方村
にしがたむら
[現在地名]員弁町西方
員弁川の北、大泉村の西に位置する。江戸時代を通じて桑名藩領。慶安郷帳(明大刑博蔵)にはまだ記載されず、元禄郷帳に至って「大泉村枝郷」として現れる。しかし、元禄郷帳において同じく「大泉村枝郷」の記載のある金井村の石高と当村の石高を合計すれば、慶安郷帳における金井村の石高と正確に一致し、また「五鈴遺響」によれば明暦(一六五五―五八)の絵図にみえないので、明暦―元禄(一六五五―一七〇四)の間に金井村から分離し、村として高付されたと考えられる。
西方村
にしがたむら
[現在地名]藤枝市西方
葉梨川を挟んで北方村の西に位置し、志太郡に属する。寛永一二年(一六三五)の山西領水野監物知行渡村之帳に村名がみえ、高五〇六石余、田中藩領。領主の変遷は北方村と同じ。元禄郷帳では高五一七石余。文化一四年(一八一七)の年貢割付状(鈴木家文書)では田方四三一石余・三五町余、畑方七五石余・一一町余。文化一一年の定免請証文(同文書)では四ヵ年、二一一石余を年貢と定められている。「駿河記」では家数一三七。天保五年(一八三四)の名寄帳(鈴木家文書)では名請人一四二人のほか、八ヵ寺と北方村三人の名が記されている。旧高旧領取調帳では旗本石川領五〇六石余、ほかに盤脚院領一〇石余がある。
西方村
にしかたむら
[現在地名]福井市西方一―二丁目・御幸三―四丁目
福井城下の東南方、和田東村の西にある。村名は、和田庄内の西方の意か。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では和田村のうちに含まれる。村名は正保郷帳にみえ、田方三六三石余・畠方一七五石余。福井藩領。当村の西、通称梵内に本覚寺跡がある。中世は和田の本覚寺として知られ、一向一揆の旗頭として活躍した真宗寺院。
西方村
にしがたむら
[現在地名]大野町西方
桜大門村の南西に位置し、村の西を三水川が流れる。慶長九年(一六〇四)以前と考えられる大島光義知行目録写(龍福寺文書)に大野郡西ノ方とあり、高五〇五石余。同一四年の大島光政・光俊知行目録(内閣文庫蔵)には旗本大島光俊領として西方村一二八石余が記される。慶長郷帳に村名がみえ、高五一四石余。元和二年(一六一六)の村高領知改帳では旗本大島光親領三八六石余・同光俊領一二八石余。正保郷帳では田三九〇石余・畑一二四石余のうち幕府領三八六石余・大島義雄領一二八石余。
西方村
にしがたむら
[現在地名]井原市西方町
門田村の西にあり、北域を小田川支流の稲木川が北東流する。寛永備中国絵図では山崎家治先知一八三石余・旗本花房領二一九石余の相給。正保郷帳では幕府領(一八三石余)・花房領(二一九石余)の相給で、枝村に大迫村・天満村があり、大迫は地字として残る。延宝五年(一六七七)の検地帳(後月郡誌)には古検有畝三一町一反余とあり、田方二四町四反余・分米二五六石余、畑方九町五反余・分米五八石余、屋敷五反余・分米五石余。
西方村
にしがたむら
[現在地名]御津町西方
御津山の東南麓にある。「御津村誌」によると、かつて広石村から分村したとある。永禄元年(一五五八)松平康忠領、天正一八年(一五九〇)より池田輝政領、慶長五年(一六〇〇)より松平長三郎領。近世には、寛文四年(一六六四)から幕府領、天和元年(一六八一)土井周防守領、宝永七年(一七一〇)板倉近江守領、享保三年(一七一八)松平孫四郎領、同一一年幕府領、寛延二年(一七四九)西大平藩領となって明治に至る。
西方村
にしほうむら
[現在地名]下館市西方
大谷川右岸にあり、東は西芳町村。文明一〇年(一四七八)水谷氏が下館に築城後、同氏の支配地となる。江戸初期に下館藩領となり、元和九年(一六二三)の水野谷様御代下館領村々石高并名主名前控(中村家文書)に、村高八七五・五九三石とある。その後天領・旗本領となり、天保八年(一八三七)の常陸御国絵図御改之記(同文書)には鎮守鹿島明神、家数五〇、馬二二、川崎平右衛門支配所、竹本喜太郎・稲生庄五郎知行所とある。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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