日本歴史地名大系 「西方村」の解説
西方村
にしかたむら
- 宮崎県:串間市
- 西方村
年未詳の長井氏宛櫛間院西方坪付(都城島津家文書)には、「ふなくら」など一四門の一六町六反と浮免六町七反(一二ヵ所)および屋敷一六(うち七ヵ所は「郡本ノふん」)が書上げられている。天正一六年(一五八八)八月、秋月種長は豊臣秀吉から櫛間四〇〇町など計八九八町余を与えられ、同一七年六月吉日の福島院西方之内坪付帳(森家文書)では、四ヵ所の田地六反と居屋敷一ヵ所(一反)が新左衛門の知行となっている。なおこの時期の西方は江戸時代の西方郷とは異なり、南方郷をも含んでいた(一部か全部かは不明)。慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原合戦後、秋月氏は本拠を櫛間に移し櫛間城に拠ったが、同九年再び
当村は郷庄屋(寛文七年以前は催司と称した)の居村であり、高鍋藩人給帳によると、寛永一五年(一六三八)「福島催司」の西方の万介に知行一〇石、同今町の杢右衛門に三石が与えられており、ほかに「鹿谷口御番衆」として四名(各知行二石)、「岩井田口御番衆」として一名(知行二石)、「福島衆」として「今町老名」三名(各切米二石)が記載されている。
西方村
にしかたむら
- 埼玉県:越谷市
- 西方村
瓦曾根村の東、東流する元荒川の右岸に位置し、対岸は
西方村
にしかたむら
- 栃木県:上都賀郡
- 西方村
郡南東部に位置。
縄文時代の遺跡として真名子・
西方村
にしかたむら
西方村
にしがたむら
- 岡山県:新見市
- 西方村
中世には新見庄に含まれ、地名は同庄の西方・東方に由来。当地には領家方政所・預所辻田方を中心に同庄の惣八幡宮(現江原八幡神社)や
西方村
にしかたむら
- 岡山県:高梁市
- 西方村
西方村
にしかたむら
西方村
にしがたむら
- 京都府:綾部市
- 西方村
康永三年(一三四四)七月の妙法院文書に
正保二年(一六四五)の山家藩「御領分古高」(「菅沼謙蔵手控」木下家蔵)に「四百石 西方村」とあり、山家藩主谷氏の一族旗本上杉谷氏領分にも「四百弐拾石 西方村」と記される。
西方村
にしがたむら
西方村
にしかたむら
寛永九年(一六三二)の徳川忠長改易後は幕府領であったと思われる。承応二年(一六五三)一部が旗本細井領となり、国立史料館本元禄郷帳では細井・青山・天方の旗本三氏の相給(ほかに地内の曹洞宗一乗寺領がある)、その後安永七年(一七七八)に旗本秋山領が設定され、幕末には幕府領と旗本細井領・同秋山領の三給であった(「寛政重修諸家譜」・旧高旧領取調帳など)。
西方村
にしかたむら
西方村
にしかたむら
- 鹿児島県:指宿市
- 西方村
西方村
にしかたむら
- 三重県:桑名市
- 西方村
現桑名市街地の西部丘陵地および大山田川沿岸にあり、
西方村
にしかたむら
- 鹿児島県:川内市
- 西方村
西方村
にしかたむら
西方村
にしがたむら
西方村
にしがたむら
西方村
にしがたむら
西方村
にしがたむら
- 静岡県:藤枝市
- 西方村
西方村
にしかたむら
西方村
にしがたむら
西方村
にしがたむら
- 岡山県:井原市
- 西方村
西方村
にしがたむら
西方村
にしほうむら
- 茨城県:下館市
- 西方村
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報