松平頼則(読み)まつだいらよりつね

日本大百科全書(ニッポニカ) 「松平頼則」の意味・わかりやすい解説

松平頼則
まつだいらよりつね
(1907―2001)

作曲家。東京生まれ。1931年(昭和6)慶応義塾大学文学部仏文科予科を中退小松耕輔(こうすけ)(1884―1966)、ロシアの作曲家チェレプニンAlexander Nikolayevich Tcherepnin(1899―1977)らに一時師事したが、ほとんど独学で作曲を学ぶ。1930年に清瀬保二(やすじ)(1900―1981)、箕作秋吉(みつくりしゅうきち)(1895―1971)らと「新興作曲家連盟」(日本現代音楽協会の前身)を結成。1935年に管弦楽曲パストラル』がチェレプニン賞第2席となるほか、ピアノ曲『前奏曲ニ調』(1934)がチェレプニン・エディションとして出版され、本格的な作曲活動に入る。1937年に歌曲『南部民謡集Ⅰ』(1936)でワインガルトナー賞を受賞。1952年(昭和27)に雅楽とセリー主義を結び付けた『ピアノと管弦楽のための主題変奏』(1951)で国際現代音楽協会音楽祭入選。以後、雅楽を西洋の楽器や前衛的な技法と結び付けた作品を発表。そのおもなものに、『催馬楽(さいばら)によるメタモルフォーズ』(1953)、室内オーケストラのための『右舞(うまい)』(1957)・『左舞(さまい)』(1958)、フルート・ソロのための『蘇莫者(そまくしゃ)』(1961)、『室内オーケストラのための舞楽』(1962)、『音取(ねとり)、品玄(ぼんげん)、入調(にゅうぢょう)』(1986)などがある。1990年代以降は雅楽の楽器や邦楽器を実際に使った作品を残した。モノ・オペラ源氏物語』(1993)では、ソプラノのほか笙(しょう)、箏(そう)を含む器楽アンサンブルが、特殊奏法を通して雅楽的な世界を表している。上野学園大学教授、日本現代音楽協会委員長を歴任。1972年紫綬褒章(しじゅほうしょう)を受章、1996年(平成8)文化功労者となる。著書に『近代和声学』(1955)がある。長男は作曲家の松平頼暁(よりあき)(1931―2023)。

[楢崎洋子]

『『近代和声学 近代及び現代の技法』新訂版(1987・音楽之友社)』

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20世紀日本人名事典 「松平頼則」の解説

松平 頼則
マツダイラ ヨリツネ

昭和・平成期の作曲家 上野学園大学名誉教授。



生年
明治40(1907)年5月5日

没年
平成13(2001)年10月25日

出生地
東京

学歴〔年〕
慶応義塾大学予科仏文科〔昭和6年〕中退

主な受賞名〔年〕
芸術祭賞〔昭和27年〕,毎日音楽賞〔昭和28年〕「ピアノと管弦楽の為の主題と変奏」,ツェルボニー室内楽賞第1位〔昭和29年〕,イタリア作曲国際コンクール室内管弦楽部門第1位〔昭和35年〕「舞楽」,紫綬褒章〔昭和47年〕,勲四等旭日小綬章〔昭和54年〕,ペトラッシ国際作曲コンクール第1位〔平成5年〕「春鶯囀」,文化功労者〔平成8年〕

経歴
大学在学中、チェレプニンに作曲を学び、昭和6年フランス音楽に自作を加えたリサイタルでピアニストとしてデビュー。9年から作曲に専念。27年の「ピアノと管弦楽の為の主題と変奏」以来、国際現代音楽協会(ISCM)に計14回の入選を果たす。10年管弦楽「パストラル」がチェレプニン賞2席となり、作曲家としての地位を確立。のち新作曲派協会の設立に参加。その後、雅楽を研究し、十二音技法やジャズと融合させるなど前衛的な作品を相次いで発表、国際的にも高い評価を得た。31年日本現代音楽協会委員長、40年上野学園大学教授に就任。42年ISCM主催世界音楽祭で日本人初の審査員となる。平成4年バルセロナ五輪記念ミサ曲を依嘱された。他の作曲作品に「春鶯囀(しゅんのうでん)」「左舞」「催馬楽によるメタモルフォーゼ」「舞楽」「神聖な舞踊による三つの楽章のための変奏曲」「バイオリン・ソナタ」、モノオペラ「源氏物語」、著書に「近代和声学」など。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

百科事典マイペディア 「松平頼則」の意味・わかりやすい解説

松平頼則【まつだいらよりつね】

作曲家。東京出身。ピアノ奏者としてデビュー後,1930年代半ばから作曲に専念。《ピアノと管弦楽のための主題と変奏》(1952年),ソプラノと室内管弦楽のための《催馬楽(さいばら)によるメタモルフォーズ》(1953年)がISCM国際現代音楽祭に入選。雅楽十二音音楽の結合で注目を集め,前者は入賞の翌年,カラヤン指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団によっても演奏された。その後も同音楽祭で入選を重ね,日本以前にまずヨーロッパで評価を高めた。《右舞》(1957年),《左舞》(1958年),《舞楽》(1961年,日本初演は1981年),《循環する楽章》(1971年),《ピアノ協奏曲第2番》(1980年)などの管弦楽曲をはじめ,実験精神に貫かれた創作活動を続けている。長男の頼暁(よりあき)〔1931-〕も作曲家。尾高賞受賞作品,マリンバとオーケストラのための《オシレーション》(1977年)などの作品がある。→チェレプニンワインガルトナー
→関連項目音楽コンクール

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「松平頼則」の意味・わかりやすい解説

松平頼則
まつだいらよりつね

[生]1907.5.5. 東京
[没]2001.10.25. 東京
作曲家。雅楽と前衛的な技法を融合させた独創的な作品で国際的に評価された。チャールズ・ラウトルップにピアノ,小松耕輔に作曲を学んだが,ほぼ独学。1930年に菅原明朗,清瀬保二らと新興作曲家連盟(のちの日本現代音楽協会)を設立。1931年慶應義塾大学仏文科を中退。同 1931年ピアニストとしてデビューしたが 1934年から作曲に専念する。1935年管弦楽『パストラル』がチェレプニン賞第2位,1937年声楽曲『南部民謡集I』がワインガルトナー賞第1位となり注目された。第2次世界大戦後は清瀬,早坂文雄らと新作曲派協会を結成,雅楽と前衛的な 12音技法などを融合させた独自の世界を追求した(→現代音楽)。1952年『越天楽』に想を得た『ピアノと管弦楽のための主題と変奏』が国際現代音楽協会 ISCM主催の音楽祭に初入選。その後も同音楽祭を中心に作品を発表し,『催馬楽によるメタモルフォーズ』『左舞』『二群のオーケストラ』など十数曲が入選した。上野学園大学教授,日本現代音楽協会委員長を務めた。1972年紫綬褒章,1979年勲四等旭日小綬章を受けた。1996年文化功労者。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「松平頼則」の解説

松平頼則 まつだいら-よりつね

1907-2001 昭和-平成時代の作曲家。
明治40年5月5日生まれ。松平頼暁(よりあき)の父。小松耕輔らに師事。昭和5年新興作曲家連盟を設立,のち日本現代音楽協会委員長。ISCM(国際現代音楽協会)音楽祭に14回入選,日本人ではじめて審査員にもえらばれた。40年上野学園大教授。平成8年文化功労者。平成13年10月25日死去。94歳。東京出身。慶大中退。作品に「催馬楽(さいばら)によるメタモルフォーゼ」など。

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ピティナ・ピアノ曲事典(作曲者) 「松平頼則」の解説

松平 頼則

徳川家の流れをくむ子爵松平頼孝の長男として東京に生まれる。慶應義塾大学仏文科在学中に、フランス人ピアニスト、ジル=マルシェクスの連続演奏会を聴き、音楽の道を志す。ヴェルクマイスターや小松耕輔に作曲の手 ...続き

出典 (社)全日本ピアノ指導者協会ピティナ・ピアノ曲事典(作曲者)について 情報

367日誕生日大事典 「松平頼則」の解説

松平 頼則 (まつだいら よりつね)

生年月日:1907年5月5日
昭和時代;平成時代の作曲家。上野学園大学教授
2001年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

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