松田正久(読み)まつだまさひさ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「松田正久」の意味・わかりやすい解説

松田正久
まつだまさひさ
(1845―1914)

明治大正時代政治家弘化(こうか)2年4月12日佐賀藩士横尾只七(よこおただしち)の次男に生まれ、同藩士松田家を継ぐ。藩校に学び、1868年(明治1)陸軍省命でフランスに留学し政治、法学を学び、帰国後裁判所に出仕し検事となったが1877年辞職。1881年『東洋自由新聞』の編集者となり、1882年九州改進党の創立に参画して自由民権運動の発展に貢献。1890年佐賀県から衆議院議員当選以来政界に重きをなし、1898年第一次大隈重信(おおくましげのぶ)内閣蔵相となる。1900年(明治33)立憲政友会の総務委員となり、第四次伊藤博文(ひろぶみ)内閣の文相、1904年から1906年まで衆議院議長、1906年第一次西園寺公望(さいおんじきんもち)内閣の司法相となり、ついで蔵相兼任、1911年第二次西園寺内閣の司法相、1913年(大正2)第一次山本権兵衛(ごんべえ)内閣の司法相となる。大正3年3月4日病没。男爵。正二位勲一等を授けられる。

[後藤 靖]

『笹川多門著『松田正久』(1938・江村会)』

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20世紀日本人名事典 「松田正久」の解説

松田 正久
マツダ マサヒサ

明治・大正期の政治家,男爵 司法相;蔵相;文相;衆院議長;衆院議員(政友会)。



生年
弘化2年4月12日(1845年)

没年
大正3(1914)年3月4日

出生地
肥前国(佐賀県)

旧姓(旧名)
横尾

主な受賞名〔年〕
勲一等旭日桐花大綬章

経歴
藩校に学び、明治5年陸軍省からフランスに留学、政治・法律を学んで帰国、陸軍翻訳官となり、のち検事となった。14年退官し、西園寺公望と共に「東洋自由新聞」を創刊。廃刊後、鹿児島造士館教諭・教頭、次いで文部省参事官。その後九州進歩党に参加、長崎県議、同県会議長となる。23年以来佐賀県から衆院議員当選7回。31年大隈内閣の蔵相。33年政友会に参画し、第4次伊藤内閣の文相となり、以後、37〜39年衆院議長、39年西園寺内閣の司法相兼蔵相、44年第2次西園寺内閣、大正2年山本内閣の各司法相を歴任原敬と並ぶ政友会重鎮。3年男爵。

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新訂 政治家人名事典 明治~昭和 「松田正久」の解説

松田 正久
マツダ マサヒサ


肩書
司法相,蔵相,文相,衆院議長

旧名・旧姓
旧姓=横尾

生年月日
弘化2年4月(1845年)

出生地
肥前国(佐賀県)

経歴
藩校に学び、明治初年陸軍省からフランスに留学、政治・法律を学んで帰国、陸軍翻訳官となり、のち検事となった。14年退官し、西園寺公望の東洋自由新聞に入社。廃刊後、鹿児島造士館教諭・教頭、次いで文部省参事官。その後九州進歩党に参加、長崎県議、同県会議長となる。23年以来佐賀県から衆院議員当選7回。31年大隈重信内閣蔵相。33年政友会に参画し、第4次伊藤博文内閣の文相となり、以後、37〜39年衆院議長、39年西園寺内閣の司法相兼蔵相、44年第2次西園寺内閣、大正2年山本権兵衛内閣の各司法相を歴任。原敬と並ぶ政友会重鎮。3年男爵。

受賞
正二位勲一等旭日桐花大綬章

没年月日
大正3年3月5日

出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「松田正久」の意味・わかりやすい解説

松田正久
まつだまさひさ

[生]弘化2(1845).4.12. 佐賀
[没]1914.3.4. 東京
政治家。男爵。佐賀藩士横尾只七の次男,松田氏を継いだ。明治5 (1872) 年陸軍省から派遣されてフランスに留学,西園寺公望とパリで交わり政治,経済を学んだ。 1875年帰国後,翌年山県有朋斡旋で陸軍省裁判所翻訳官,司法省検事となったが,やがて辞し,81年『東洋自由新聞』の編集にあたり,自由民権運動に加わった。第1議会 (90) には自由党より代議士に当選。河野広中,林有造とともに自由党三支柱といわれ,同党九州派を率いた。 98年隈板内閣の蔵相。立憲政友会の創立には総務委員として尽力した。 1900年伊藤内閣の文相を経て日露戦争時に衆議院議長。 06年第1次西園寺内閣の法相兼蔵相,11年第2次西園寺内閣,13年山本内閣で法相。西園寺の総裁時代には原敬とともに政友会の二大領袖として党務にあったが,終始優柔不断として知られ,表だち政局を左右する行動は少なかった。

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改訂新版 世界大百科事典 「松田正久」の意味・わかりやすい解説

松田正久 (まつだまさひさ)
生没年:1845-1914(弘化2-大正3)

政党政治家。佐賀県出身。藩校などで漢学を学び,1872年(明治5)陸軍省出仕。同年フランスに留学し,法律,経済を修め,帰国後官を辞し,77年長崎県会議員となる。《東洋自由新聞》に入り,自由民権運動に参加。第1回総選挙に佐賀から当選,自由党,憲政党に属して党内に重きをなす。98年第1次大隈重信内閣の蔵相。1900年立憲政友会の創立に参加,幹部として活躍。04年衆議院議長,第1次・第2次西園寺公望内閣の司法大臣を歴任。政友会総裁西園寺を原敬とともに支え,政党派の領袖として人望が高かった。1914年男爵となり,まもなく病気により没した。
執筆者:

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朝日日本歴史人物事典 「松田正久」の解説

松田正久

没年:大正3.3.4(1914)
生年:弘化2.4.12(1845.5.17)
明治大正期の政党政治家。肥前小城藩(佐賀県)藩士の子として生まれる。維新後,藩命を受けて上京,初め昌平黌で漢学を学んだが,すぐに西周 の下でフランス語学,万国公法を学ぶ。陸軍省に出仕し,軍事研究のためフランスに留学。帰国後は陸軍省を辞し,ルソーらフランス流の急進的自由民権論を展開,西園寺公望と共に『東洋自由新聞』を創刊(1881)する。一方,長崎県会議長ともなり,明治23(1890)年衆院議員に当選,自由党に所属する。その後,落選を続けるが党に政務調査会を組織し,党内に影響力を強める。31年大蔵大臣に就任,立憲政友会の創立にも参画し,原敬 と共に西園寺総裁の下で党を指導する。のち司法大臣,大蔵大臣などを歴任。急進自由主義から出発したが,その後政党指導者として「不得要領」と形容されたように老練な味を出し,議論好きな原と共に政友会を大政党に導いた。<参考文献>笹川多門『松田正久稿』

(季武嘉也)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「松田正久」の解説

松田正久 まつだ-まさひさ

1845-1914 明治-大正時代の政治家。
弘化(こうか)2年4月12日生まれ。明治5年陸軍省からフランス留学。14年西園寺公望(さいおんじ-きんもち)と「東洋自由新聞」を創刊。23年衆議院議員(当選7回)。33年政友会結成にくわわる。蔵相,文相,衆議院議長,法相などをつとめた。大正3年3月4日死去。70歳。肥前小城郡(佐賀県)出身。本姓は横尾。号は牛州など。

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367日誕生日大事典 「松田正久」の解説

松田 正久 (まつだ まさひさ)

生年月日:1845年4月12日
明治時代;大正時代の政治家。衆議院議長
1914年没

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