林城(読み)はやしじよう

日本歴史地名大系 「林城」の解説

林城
はやしじよう

[現在地名]松本市里山辺 林、入山辺 橋倉

大城おおじよう小城からなる。林村と橋倉村の間に大城(橋倉城)があり、すすき川がその北東麓を南に流れる。南麓は大嵩崎おおつき村、その南に小城がある。大城と小城を合わせた構えは馬蹄形をなしている。「信府統記」に、「林村山古城地、林村ヨリ卯ノ方十七町、小笠原家ノ要害ナリ、是ヲ大城ト云フ、本城ノ平辰ヨリ戌ノ方二十九間、丑ヨリ未ノ方十四間」とある。

大城は東方山地から西北に突き出した岬状の独立丘で、西南金華きんか橋の辺りから屈曲した小径を尾根伝いに登るとまず福山の頂に至る。それより東に進むと左右は峻険な崖で、第一の空堀、第一の小郭があり、およそ四〇〇メートルにして副郭に達する。ここを中心に数十の段郭、十数条の空堀が南北にあり、主郭はその東に続く最高部にある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

日本の城がわかる事典 「林城」の解説

はやしじょう【林城】

長野県松本市にあった山城(やまじろ)。同県指定史跡。戦国時代の信濃守護の小笠原氏の居城松本盆地を見下ろす同市南東の筑摩山系(標高846m、比高210m)に位置している壮大な城郭である。2つの峰に大城(金華山城)と小城(福山城)があり、林城はこれらの城郭群の総称である。小城は大城以前の古城と考えられてきたが、最近では、縄張りなどから大城がつくられた後に築城された城と推定されている。小笠原氏は甲斐源氏の流れを汲む名流で、室町時代初期に幕府・北朝方に属して戦功をあげ、1334年(建武1)に松尾(現長野県飯田市)から信濃国府中(現在の松本市)に本拠を移し、井川館(井川城、同市)を築いて居館とした。その後、守護の座は二転三転し、また、北信濃の村上氏をはじめ小笠原氏に服する国人勢力も少なく、小笠原家も府中小笠原氏、鈴岡小笠原氏、松尾小笠原氏に分かれて対立して、その地位はきわめて不安定だった。しかし、府中小笠原氏の当主で信濃守護の小笠原長棟は1534年(天文3)、今日の同県飯田市を拠点にしていた松尾小笠原氏の当主小笠原長基を降して小笠原氏を統一し、さらに敵対していた諏訪氏と和睦して戦国大名としての小笠原氏の基礎をつくった。その長棟が築いた山城が林城である。以降、小笠原氏は平地の城館である井川館と山城の林城を根拠地として、その周囲に埴原城(松本市)、山家(やまべ)城(同市)、伊深城(同市)、犬甘(いぬかい)城(同市)、平瀬城(同市)、深志城(のちの松本城、同市)などの城郭群を建設して強固な防衛線を築いた。建武年間(1334~38年)に小笠原貞宗が府中に井川館を居城としてから小笠原長時が武田晴信(武田信玄)に敗れて信濃を退去するまでの約200年間にわたり、小笠原氏の拠点となった。林城は1550年(天文19)、信玄に攻められ、落城した。その後、信玄は攻略した林城ではなく、深志城を修復して信濃経営の拠点としたことから、林城は廃城となった。大城(金華山城)跡には現在、曲輪(くるわ)、土塁、石垣などの遺構が残り、城の周囲には遊歩道が整備されている。一方、小城(福山城)跡にも土塁や石垣が残っている。JR篠ノ井線(中央本線)・大糸線、松本電鉄松本駅からバス、金華橋下車。または、同駅から徒歩約60分。

出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報

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