日本歴史地名大系 「柏原藩陣屋跡」の解説 柏原藩陣屋跡かいばらはんじんやあと 兵庫県:氷上郡柏原町柏原町柏原藩陣屋跡[現在地名]柏原町柏原現柏原町東部の譲葉(ゆずりは)山(五四一・四メートル)山麓の平地に構築された柏原藩の陣屋跡。正徳四年(一七一四)藩主織田信休が築造、文化一三年(一八一六)に火災のため表御門を残して全焼したが(柏原藩御用部屋日記)、文政(一八一八―三〇)初年に再建(陣屋鬼板瓦刻銘)、以後廃藩置県まで存続し織田氏一〇代の居館とされた。陣屋を築いた信休は元禄八年(一六九五)に大和松山(まつやま)(現奈良県大宇陀町)より移封され柏原藩主となったもので、藩領は同年の柏原藩領知目録によると、丹波国氷上郡内で柏原・下小倉(しもおぐら)・中(なか)・母坪(ほつぼ)、北野(きたの)・大崎(おおさき)・稲畑(いなはた)・本郷(ほんごう)・犬岡(いぬおか)・柿芝(かきしば)・長野(ながの)・桟敷(さじき)・田中(たなか)・南田井(みなみたい)・井中(いなか)・御油(ごゆ)・沼(ぬま)(現氷上町)、石才(いしざい)・坂(さか)・野山(のやま)・古河(ふるかわ)(現春日町)、阿草(あくさ)・下滝(しもたき)・太田(おおだ)・池谷(いけだに)・北嶋(きたじま)・金屋(かなや)・井原(いはら)・岩屋(いわや)・応地(おうち)(現山南町)、栗住野(くりすの)・西芦田(にしあしだ)・佐治(さじ)・檜倉(ひのくら)・大名草(おなざ)・山垣(やまがい)・遠坂(とおざか)・小和田(こわだ)・口塩久(くちしおく)・奥塩久(おくしおく)・田井縄(たいなわ)・東芦田(現青垣町)、鴨坂上(かもさかかみ)村・鴨坂下村(現市島町)の四四ヵ村、同国何鹿(いかるが)郡内で位田(いでん)・高槻(たかつき)・志賀(しが)・坊河内(ぼうぐち)・西方(にしがた)・物部(ものべ)・小畑新庄(おばたしんしよ)(現京都府綾部市)、報恩寺(ほおじ)(現同府福知山市)の八ヵ村、同国天田(あまた)郡内で田野(たの)・石原(いさ)・戸田(とだ)・前田(まえだ)・川北(かわぎた)(現同上)の五ヵ村に及び、五七ヵ村・二万石を領していた。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by
国指定史跡ガイド 「柏原藩陣屋跡」の解説 かいばらはんじんやあと【柏原藩陣屋跡】 兵庫県丹波市柏原町にある陣屋跡。柏原織田藩は1598年(慶長3)、織田信長の弟信包(のぶかね)が伊勢国から移封してきたことに始まるが、3代続いたのち、1650年(慶安3)に嗣子がないため収公され天領となった。その後、1695年(元禄8)に大和宇陀郡松山から信休(のぶひさ)が移封され、その子孫が代々2万石を領し、明治維新まで織田家が藩主となっていた。藩邸は、1714年(正徳4年)に造営されたが、1818年(文政1)に焼失し、1820年(文政3)に再建され、1872年(明治5)の学制発布によって翌年、隣接する崇広(すうこう)小学校の校舎の一部となった。1971年(昭和46)に国の史跡に指定された。檜皮葺き唐破風の表玄関、桟瓦葺き寄せ棟造りの大書院、長屋門が当時のまま残っており、2011年(平成23)には整備工事が完了して、当時の間取りなども再現された。長屋門の前には柏原歴史民俗資料館がある。JR福知山線柏原駅から徒歩約10分。 出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報 Sponserd by