柴田是真(読み)シバタゼシン

デジタル大辞泉 「柴田是真」の意味・読み・例文・類語

しばた‐ぜしん【柴田是真】

[1807~1891]幕末から明治の漆芸家・日本画家。江戸の人。通称、順蔵。蒔絵まきえに新境地を示したほか、和紙の上に色漆で描く独自の漆絵を創始。作「茨木童子図額」など。

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精選版 日本国語大辞典 「柴田是真」の意味・読み・例文・類語

しばた‐ぜしん【柴田是真】

  1. 幕末・明治の日本画家、漆芸家。名は順蔵。別号は令哉、対柳居。江戸の人。絵画は明治時代の東都画壇にその名が聞こえたが、漆絵や蒔絵にも独特の才を発揮した。帝室技芸員代表作「茨木童子図額」「烏鷺(うろ)蒔絵菓子器」。文化四~明治二四年(一八〇七‐九一

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「柴田是真」の意味・わかりやすい解説

柴田是真
しばたぜしん
(1807―1891)

幕末から明治の漆工、絵師。江戸・両国橘(たちばな)町生まれ。通称順蔵。幼名亀太郎、号は令哉(れいさい)、対柳居(たいりゅうきょ)、枕流亭(ちんりゅうてい)。11歳で蒔絵師(まきえし)古満寛哉(こまかんさい)(1767―1835)に入門、16歳のとき四条派鈴木南嶺(なんれい)(1775―1844)に絵画を学び、24歳の春、京都に遊学し、南嶺の紹介で岡本豊彦(とよひこ)(1773―1845)につく。また頼山陽(らいさんよう)と交わり、和歌香川景樹(かげき)に学ぶ。27歳のとき、南嶺より号是真、字(あざな)儃然(たんぜん)を贈られ、これまでの号令哉を改めた。1840年(天保11)2月、江戸住吉明徳講の依頼で王子稲荷(いなり)社に絵馬『鬼女図額面』を制作奉納、その迫力ある筆致と気魄(きはく)に満ちたみごとな表現は江戸中の人気の的となった。同稲荷社には代表作の『茨木童子(いばらぎどうじ)図額』も現存している。のち変(かわり)塗りの青海波(せいがいは)塗りや青銅塗りなどの技法を駆使して、是真流の漆芸を完成させた。1873年(明治6)政府の推挙でウィーン万国博覧会に『冨士田子浦(ふじたごのうら)蒔絵額面』を出品、進歩賞牌(しょうはい)を受賞して以来、内外の展覧会で多くの賞牌を受ける。なかでも、和紙の上に色漆(いろうるし)で描く漆絵は、油絵を彷彿(ほうふつ)させる是真独得の画法である。1890年帝室技芸員に任命。漆器の作品は、器形の妙味と、加飾の蒔絵がよく調和して粋(いき)な江戸趣味を表し、代表作に『烏鷺(うろ)蒔絵菓子器』(東京国立博物館)がある。絵画では小粋(こいき)な題材やユーモラスな内容の俳味のあるものに特色をもった作品が残っている。

郷家忠臣


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改訂新版 世界大百科事典 「柴田是真」の意味・わかりやすい解説

柴田是真 (しばたぜしん)
生没年:1807-91(文化4-明治24)

幕末・明治時代の蒔絵師,絵師。江戸両国橘町に生まれる。幼名亀太郎,のち順蔵。字は儃然,27歳ころから是真と号した。11歳で古満寛哉(こまかんさい)に蒔絵を学び,16歳で円山四条派の鈴木南嶺,のち岡本豊彦に絵を学ぶ。香川景樹,頼山陽らとも交わった。1840年(天保11)江戸住吉明徳講の求めにより《鬼女図額面》を制作し,王子稲荷へ奉納,市中の人気をわかせ絵師の地位も高まった。弘化年間(1844-48)に青海波塗を復活させ,青銅塗,石目塗などの新しい漆塗法を工夫している。明治初年には和紙に彩漆(いろうるし)で絵を描く漆絵を試み,油絵のような効果を生みだした。彼の漆器制作はすぐれた画技によって下絵から仕上げまで自ら行う独自のもので,奇抜な趣向の器形と意匠がよくあっている。73年のウィーン万国博出品の《富士田子浦蒔絵額面》は進歩賞牌を受けた。90年帝室技芸員。令哉,真哉,隆真の3子が父の業を継ぎ,門弟には池田泰真らがいる。
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朝日日本歴史人物事典 「柴田是真」の解説

柴田是真

没年:明治24.7.13(1891)
生年:文化4.2.7(1807.3.15)
幕末明治期の日本画家,蒔絵師。江戸両国の彫工の家に生まれる。本名亀太郎,のち順蔵。古満寛哉に蒔絵,鈴木南嶺に円山派の絵を学んだのち,天保1(1830)年京都に遊学し,岡本豊彦に四条派の絵を学ぶ。以後,円山四条派,蒔絵,漆絵を手がけ,江戸に帰ってのち浅草に住んで対柳居とも号した。同11年江戸住吉明徳講の依頼によって制作し王子稲荷神社に奉納された「鬼女(茨木)図」は,当時評判となり,現在も同社に伝わっている。また正倉院をはじめ奈良諸寺の宝物を通して古典を研究し,蒔絵で青海波塗を復活したことでも知られる。維新後は,明治6(1873)年のウィーン万博,9年フィラデルフィア万博,22年パリ万博,あるいは内国勧業博覧会など内外の博覧会で高賞を受賞,日本近代美術の中では,河鍋暁斎と並んで現在もなお,欧米で高い人気と知名度を誇る作家のひとりである。23年帝室技芸員となり,翌24年日本漆工会を設立している。門弟に池田泰真らがいる。

(佐藤道信)

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百科事典マイペディア 「柴田是真」の意味・わかりやすい解説

柴田是真【しばたぜしん】

日本画家,漆芸家。宮彫師柴田市五郎の子として江戸に生まれ,古満(こま)寛哉に蒔絵(まきえ)を,鈴木南嶺,岡本豊彦に絵を学んだ。絵の代表作に《茨木(いばらき)童子図額》《瀑布図屏風》がある。また蒔絵,漆絵を得意として明治工芸界に貢献し,1890年帝室技芸員となる。門下に池田泰真など。
→関連項目小林清親

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「柴田是真」の意味・わかりやすい解説

柴田是真
しばたぜしん

[生]文化4(1807).2.7. 江戸
[没]1891.7.13. 東京
幕末~明治の古満派 (こまは) の漆芸家,日本画家。江戸両国橋の宮彫師柴田市五郎の子。名は亀太郎のち順蔵。号は是真,令哉,対柳居,沈柳亭など。文化 11 (1814) 年古満寛哉に蒔絵を習い,文政5 (22) 年頃から鈴木南嶺に,天保1 (30) 年から京都の岡本豊彦に絵を学んだ。作品を内外の博覧会や絵画共進会に出品し,漆芸においては漆絵に独特の妙技をふるった。絵画では工芸的意匠を施した軽妙洒脱な絵を描いて名声を博し,1890年に帝室技芸員となった。主要作品は『茨木童子図額』 (王子稲荷神社) ,『四季花鳥図』6曲屏風1双 (東京国立博物館) など。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「柴田是真」の解説

柴田是真 しばた-ぜしん

1807-1891 江戸後期-明治時代の日本画家,漆芸家。
文化4年2月7日生まれ。古満寛哉(こま-かんさい)に蒔絵(まきえ)を,鈴木南嶺,岡本豊彦に円山四条派の絵をまなぶ。天保(てんぽう)11年江戸の王子稲荷神社に絵馬「鬼女図」を奉納,評判となる。のち蒔絵の青海波(せいがいは)塗を復活させ,内外の博覧会に蒔絵額,漆絵を出品し受賞。明治23年帝室技芸員。明治24年7月13日死去。85歳。江戸出身。名は順蔵。字(あざな)は儃然(たんぜん)。別号に令哉,対柳居。

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旺文社日本史事典 三訂版 「柴田是真」の解説

柴田是真
しばたぜしん

1807〜91
幕末・明治期の日本画家・漆芸家
江戸の生まれ。絵は四条派をよくし,蒔絵 (まきえ) は明治の第一人者。意匠力にすぐれ,常に独創的製作を主張し,のち帝室技芸員に選ばれた。代表作に『茨木童子図額』『瀑布図屛風』など。

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367日誕生日大事典 「柴田是真」の解説

柴田 是真 (しばた ぜしん)

生年月日:1807年2月7日
江戸時代;明治時代の日本画家
1891年没

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