根本通明(読み)ネモトツウメイ

デジタル大辞泉 「根本通明」の意味・読み・例文・類語

ねもと‐つうめい【根本通明】

[1822~1906]幕末明治漢学者出羽の人。号、羽嶽・健斎。名は「みちあき」とも。秋田藩校で教え、維新後は東大教授。考証学易学に精通した。著「周易復古筮法」「論語講義」「老子講義」など。

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精選版 日本国語大辞典 「根本通明」の意味・読み・例文・類語

ねもと‐つうめい【根本通明】

  1. 漢学者。字は子龍。号は羽嶽。出羽刈和野(秋田県大仙市)出身。秋田藩校明徳館学長として藩の教育学政をつかさどる。維新後、帝国大学文科大学教授。清朝の考証学、易学に精通した。著「読易私記」「周易復古筮法」「論語講義」など。文政五~明治三九年(一八二二‐一九〇六

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「根本通明」の意味・わかりやすい解説

根本通明(ねもとつうめい)
ねもとつうめい
(1822―1906)

明治の漢学者。字(あざな)は子龍、号は羽嶽(うがく)。文政(ぶんせい)5年2月15日、秋田の刈和野(かりわの)に生まれる。藩校明徳館教授から学長となる。1874年(明治7)東京に移籍。1886年御進講。1896年帝国大学文科大学(現、東京大学文学部)教授。1899年文学博士。明治39年10月3日没。勲四等瑞宝章(ずいほうしょう)、従(じゅ)四位。閑院宮(かんいんのみや)より「前賢未発」の親筆を賜る。四書五経から諸子の老荘まで該博精確な読書家で、とくに『易』『論語』につまびらかであった。その勤王思想から、『易』は革命の書にあらずという。講義は明晰(めいせき)で、門生数千と伝えられる。講友に中村正直(なかむらまさなお)、島田篁村(しまだこうそん)(重礼(ちょうれい))、重野安繹(しげのやすつぐ)などがいた。武技にも長じ、刀剣を趣味とした。著書に『周易復古筮(ぜい)法』『論語講義』『周易象義辯正』などがある。

[宇野茂彦 2018年10月19日]


根本通明(ねもとみちあき)
ねもとみちあき

根本通明

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「根本通明」の解説

根本通明 ねもと-みちあき

1822-1906 江戸後期-明治時代の儒者
文政5年2月15日生まれ。出羽(でわ)久保田藩(秋田県)藩士。藩校明徳館にまなび,のち藩校教授,祭酒(学長)。維新後,宮内省御用掛をへて帝国大学教授。朱子学からのちに清朝(しんちょう)考証学に転じた。明治39年10月3日死去。85歳。字(あざな)は子竜。号は羽岳,通斎。著作に「周易復古筮(ぜい)法」「論語講義」など。

根本通明 ねもと-つうめい

ねもと-みちあき

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「根本通明」の意味・わかりやすい解説

根本通明
ねもとつうめい

[生]文政5(1822).2.15. 羽後,刈和野
[没]1906.10.3. 東京
漢学者。幼名,周助。字,子籠。号,羽岳,健斎。秋田藩校の明徳館に学び,のち同館学長となった。維新後,宮内省御用掛などをつとめ,1890年根本義塾を創立して子弟の教育をはかり,95年東京大学教授。朱子学,考証学を修め,易学にも精通した。著書『読易私記』『論語講義』など。

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