羽後(読み)ウゴ

デジタル大辞泉 「羽後」の意味・読み・例文・類語

うご【羽後】

旧国名の一。明治元年(1868)、出羽でわ国を南北二分した北の部分。同4年7月14日廃藩置県発令まで、東山道13か国の一つに数えられた。範囲は現在の鹿角かづの市および小坂町を除く秋田県と、山形県飽海あくみ郡および酒田市最上川以北。
秋田県南部、雄勝おがち郡の地名。中心の西馬音内にしもない盆踊り仙道番楽ばんがくなどが伝わる。

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精選版 日本国語大辞典 「羽後」の意味・読み・例文・類語

うご【羽後】

  1. [ 一 ] 東山道一三か国の一つ。明治元年(一八六八出羽国を二分した北半分で、秋田県の大部分と山形県の一部となる。
  2. [ 二 ] 秋田県南部、雄勝郡の地名。中心の西馬音内(にしもない)盆踊り、仙道の番楽(ばんがく)などが伝わる。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「羽後」の意味・わかりやすい解説

羽後(町)
うご

秋田県南部、雄勝郡(おがちぐん)にある町。雄物(おもの)川西岸に位置し、対岸の湯沢市からバスの便がある。1955年(昭和30)西馬音内(にしもない)町と三輪(みわ)、元(もと)西馬音内、新成(にいなり)、田代(たしろ)、仙道(せんどう)の5村が合併して成立。西部は出羽(でわ)丘陵山地で、東部に雄物川扇状地が広がる。米作のほか、スイカ、メロンの栽培が行われる。出稼ぎの多い地域で、農家数の半分近くが県外に出る。戦国時代は西馬音内氏の支配下、江戸時代は秋田藩領で、矢島藩との境には口留番所(くちどめばんしょ)が置かれた。8月16日から3日間行われる西馬音内の盆踊りは国の重要無形民俗文化財、また江戸初期の神楽(かぐら)舞に発する仙道番楽(ばんがく)、明治初年に始まる三輪地区野中の猿倉人形芝居は県の無形民俗文化財に指定されている。三輪神社本殿は室町時代の様式を伝え、江戸前期の境内社須賀神社本殿とともに国の重要文化財。県内最古の藁葺(わらぶ)きといわれる「鈴木家住宅」も国の重要文化財に指定されている。江戸後期の農学者佐藤信淵(のぶひろ)は西馬音内、または郡山の出身である。面積230.78平方キロメートル、人口1万3825(2020)。

[宮崎禮次郎]

『『羽後町郷土史』(1966・羽後町)』


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改訂新版 世界大百科事典 「羽後」の意味・わかりやすい解説

羽後[町] (うご)

秋田県南部,雄勝郡の町。人口1万6792(2010)。横手盆地の南西部,雄物川西岸にあり,東は湯沢市に接する。町の西部は子吉川水系の田代川流域を含む。759年(天平宝字3)に築かれた雄勝城の所在地を町内に比定する説がある。中心の西馬音内(にしもない)は雄物川西岸の交通・経済の中心で,由利本荘市への道も通じており,近世には本荘・亀田両藩の本陣も置かれた。九斎市も開かれ,商圏は由利郡にも及んだ。1928年に雄勝電鉄(のち羽後交通雄勝線)湯沢~西馬音内間が開通したが,73年に廃止された。農業が中心で米作のほか,近年はスイカの栽培が盛ん。出稼ぎも多く農家の半数以上に及んでいる。8月16~18日に行われる西馬音内盆踊は中世以来の歴史をもつ。三輪神社本殿および境内社の須賀神社本殿,江戸中期の民家鈴木家住宅は重要文化財に指定されている。江戸後期の経世家佐藤信淵の出生地と伝えられ,信淵文庫がある。
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百科事典マイペディア 「羽後」の意味・わかりやすい解説

羽後[町]【うご】

秋田県南部,雄勝(おがち)郡の町。東部は横手盆地で水田が広く,米産が多い。中心の西馬音内(にしもない)は古くからの商業地で,2,5,8の日に市が開かれ,盆踊も郷土芸能として有名。230.78km2。1万6792人(2010)。

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