桑畑村(読み)くわばたむら

日本歴史地名大系 「桑畑村」の解説

桑畑村
くわばたむら

[現在地名]伊集院町桑畑

下神殿しもこうどの村の西、標高一五〇メートル前後の丘陵に立地する。野田のだ川が西流し、流域に平地が開け、集落が散在している。桑波田・桑羽田・桑幡とも記す。

〔中世〕

薩摩国建久図田帳に伊集院のうちとして「桑羽田五町 万得」とみえ、大隅正八幡宮(現鹿児島神宮)の万得領であった。嘉元二年(一三〇四)三月二日、紀姓伊集院氏の一流桑波田景氏が相伝所領の桑波田郷の田畠・山野・狩倉を息の桑波田四郎三郎に譲っている(「紀景氏譲状」島津家文書)。鎌倉時代後期と推定される薩摩伊集院分造宇佐宮用途支配注文(島津家文書)によれば、桑波田は豊前宇佐宮造営用途三三疋・人夫食料米七斗二合五勺を賦課されている。


桑畑村
くわばたむら

[現在地名]阪南町桑畑

箱作はこつくり村の南東にあり、井関いせき川の上流に広がる山村井関川沿いに井関峠越の道がある。もとはた(波太)村と称し、文禄三年(一五九四)八月の検地帳表紙には「日根郡鳥取庄畑村御検地帳」とあり、田数八町一反余・分米一〇二石余、畑数一町七反余・分米一九石余であった(東鳥取村誌)。慶長一〇年(一六〇五)和泉国絵図に「桑畑村」とみえ高一二二石余。寛永末年頃の状況を記したと推定される和泉国郷村帳では二六〇石余。


桑畑村
くわばたむら

[現在地名]直入町長湯ながゆ 桑畑

新田にいだ村の東、せり川の中流域に位置。郷帳類に村名がみえず、「豊後国志」に桑畠とみえる。寛文一一年(一六七一)芹川畔の地内葛淵くずぶち温泉に岡藩の御湯屋が建てられ、藩主が湯治に訪れている。しかし元禄一五年(一七〇二)の大風雨で建物が流失した(地方温故集)。承応三年(一六五四)に当地で取水し湯原ゆのはる村へ流れる井手ができたという(「湯原組大庄屋覚書」甲斐家文書)。嘉永五年(一八五二)には高一二二石余、村位は中、免七ツ(「長野組物成定」戸伏家文書)、軒数一四・人数五九、牛二六・馬一〇(「軒別作高人別牛馬書上帳」同文書)


桑畑村
くわばたむら

[現在地名]幡豆町東幡豆ひがしはず

北の山地と南の海に挟まれた、なだらかな丘陵が海に続く一帯である。享和二年(一八〇二)の明細帳(愛知県幡豆町誌)によると、村高二五九石のうち、田方・畑方の比は二と一の割合である。船持九人、網持二人、塩浜六反余、馬一四匹と記す。百姓家八六軒のうち本百姓六〇・水呑二六。尼僧二人、医師本道一人、職人は大工・木挽・桶屋各一、商人は木綿師二、雑商売・灰買各一の構成である。


桑畑村
くわばたけむら

[現在地名]庄内町庄内原しようないばる 小原おばら

大分川左岸に位置し、西は小原村。江戸時代を通じて府内藩領で、奥郷蛇口組に属した(府内藩記録)正保郷帳に村名がみえ田高三〇石余・畑高一四石余、阿南あなん庄に所属。元禄一〇年(一六九七)府内領郷帳(同記録)に「桑畑村くわばたけむら」とある。


桑畑村
くわばたむら

[現在地名]野津町千塚ちづか 福原ふくばる

長小野ながおの村の南西、千塚川西岸にある。慶長二年(一五九七)の野津院検地帳写(渡辺家文書)には桑畑村が長小野村など九ヵ村と一括された一冊が含まれ、村位は下。同一一年の惣御高頭御帳に桑ノ畑村とみえ、高二三石余。下ノ村組に属した。正保二年(一六四五)の稲葉能登守知行高付帳によれば田方六石余・畑方一六石余、柴山などありと注記される。


桑畑村
くわはたむら

[現在地名]十津川村大字桑畑

十津川渓谷、七色なないろ村上流の集落。十津川郷のうち。元禄郷帳に初めて村名がみえる。村高五・二三二石、幕府領。安政四年(一八五七)の産物取調帳(十津川宝蔵文書)に杉角尺〆五〇本、檜角尺〆一〇本、椴栂松尺〆三〇本、杉板五〇間、割菜六〇貫目、楮三〇貫目、炭一千五〇〇俵、松脂三〇貫目とみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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