デジタル大辞泉
「梅若実」の意味・読み・例文・類語
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うめわか‐みのる【梅若実】
- 能楽師。シテ方。観世流。
- [ 一 ] 初世。江戸の人。明治維新初期の能楽に、再興の道を開いた。明治の三名人の一人。文政一一~明治四二年(一八二八‐一九〇九)
- [ 二 ] 二世。初世の次子。東京の人。兄万三郎と梅若流を樹立したが、のち、観世流に復帰。明治一一~昭和三四年(一八七八‐一九五九)
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梅若実
うめわかみのる
能役者。観世流シテ方。
(1828―1909)梅若六郎家51世氏賜(うじあき)の養子。本名梅若氏実(うじさね)。前名亀次郎、六之丞(ろくのじょう)、六郎。1872年(明治5)隠居名、実を名のる。幕府の崩壊とともにその式楽であった能は危機に陥り、観世宗家清孝は将軍に従って静岡に去り、16世宝生九郎(ほうしょうくろう)も一時能から離れたなかで、実は東京に踏みとどまり、能楽復興の基礎をつくった。政治的手腕にも優れ、貴族や新興財閥の後援も得、また16世宝生九郎、桜間伴馬(さくらまばんま)とともに明治三名人とうたわれた。観世華雪(かせつ)は娘婿。なお60年にわたる『梅若実日記』は幕末から明治の動乱期の貴重な資料である。
[増田正造]
(1878―1959)初世の次男。本名梅若氏泰(うじやす)。前名竹世、実邦(さねくに)、景昭(かげあき)、六郎。一度六郎を継いだ姉婿の観世清之(きよし)(のちに観世喜之(よしゆき)家の初世となる)が実家に去ったあと、梅若家の当主となる。実兄の初世万三郎(梅若分家を継ぐ)とともに1921年(大正10)に梅若流を興し、兄と華雪に去られたあとも梅若流の孤塁を守ったが、隠居後の1954年(昭和29)、一門とともに観世流に復帰、長年の観梅(かんばい)問題が解決した。1955年芸術院会員。巧緻(こうち)、艶麗(えんれい)な芸風で、劇的な心理表現に優れた。55世梅若六郎、雅俊(まさとし)(1910―1995、前名武久)、恭行(やすゆき)(1917―2003、前名泰之)は実(みのる)の子。白州正子著に『梅若実聞書』がある。
[増田正造]
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梅若実 (うめわかみのる)
能役者。(1)初世(1828-1909・文政11-明治42) 幼名亀次郎,のち六之丞,六郎。実は隠居名。実父は寛永寺御用達鯨井平左衛門。梅若六郎氏暘(うじあき)の養子となり,1839年(天保10)家督相続,59年(安政6)六郎氏実(うじざね)と名のる。72年(明治5)家督を養子源次郎(のちの観世清之)に譲り,隠居して実と改名。江戸幕府崩解後の変動期にあって,生活上の危機を乗り越え,東京にとどまり演能を続け,能楽復興の最大の功績者となった。宝生九郎,桜間伴馬とならんで明治の三名人とうたわれる。長男万三郎,次男の2世実ともに斯道の後継者として大をなした。(2)2世(1878-1959・明治11-昭和34) 初世実の次男。幼名竹世。義兄六郎氏演(源次郎)の順養子となり,家督を相続し,のち六郎を襲名。1921年兄梅若万三郎,妹婿観世銕之丞(てつのじよう)(のちの観世華雪)とともに梅若流を樹立。その後,29年銕之丞が,その4年後に万三郎が,あいついで観世流に復帰したのちも孤塁を守って梅若流を維持した。そのため,免状発行権にからむ観世宗家との紛争など,能楽界での立場は30余年間紆余曲折をきわめたが,54年能楽協会の仲介斡旋で観世流に復帰した。48年長男六之丞に六郎を継がせ,2世実を名のる。初世の芸風を受け継いで繊巧華麗な技巧と洗練された演劇性で知られた。55年芸術院会員となる。長男六郎(1907-79)も芸術院会員。次男に雅俊,三男に恭行がいる。
執筆者:羽田 昶
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梅若 実(2代目)
ウメワカ ミノル
- 職業
- 能楽師(観世流シテ方)
- 肩書
- 梅若家16代目 日本芸術院会員〔昭和30年〕
- 本名
- 梅若 氏康(ウメワカ ウジヤス)
- 別名
- 幼名=梅若 竹世,前名=梅若 六郎(54代目)
- 生年月日
- 明治11年 4月28日
- 出生地
- 東京
- 経歴
- 先代梅若実の二男。明治33年54代梅若六郎を襲名。免状発行問題のこじれから大正10年観世宗家から破門され、兄の万三郎らと梅若流を興し、兄の観世流復帰とともに梅若流を守った。昭和23年に隠居して梅若実。29年息子の梅若六郎の代に観世流に戻って、長い“観梅問題”に決着がついた。30年芸術院会員。著書に「梅若実聞書」がある。
- 所属団体
- 日本能楽会
- 没年月日
- 昭和34年 8月16日 (1959年)
- 家族
- 父=梅若 実(初代),兄=梅若 万三郎(初代),長男=梅若 六郎(55代目),二男=梅若 雅俊,三男=梅若 恭行,孫=梅若 玄祥(2代目)
- 親族
- 義弟=観世 銕之丞(6代目)(=華雪),女婿=宇野 信夫(劇作家)
- 伝記
- 心に残る人々お能・老木の花 白洲 正子 著白洲 正子 著(発行元 講談社講談社 ’96’93発行)
梅若 実(初代)
ウメワカ ミノル
- 職業
- 能楽師(観世流シテ方)
- 肩書
- 梅若家15代目
- 本名
- 梅若 氏実(ウメワカ ウジザネ)
- 別名
- 幼名=亀次郎,前名=梅若 六之丞,通称=梅若 六郎(52代目)(ウメワカ ロクロウ)
- 生年月日
- 文政11年 4月13日
- 出生地
- 江戸・銀町(東京都)
- 経歴
- 天保7年観世流梅若六郎氏暘の養子となり、10年六之丞と改め後、安政6年通名六郎を襲名。明治4年厩橋に能楽堂を建て、9年岩倉具視邸で天覧能を演じた。しかし5年に観世流分家銕之丞の弟に家督を譲り、自らは実と称した。また幕府崩壊で能に絶望、帰農していた宝生九郎を中央能界に復帰させるなど、明治の能楽復興に貢献した。宝生九郎、桜間左陣とともに明治三名人の一人とうたわれた。
- 没年月日
- 明治42年 1月19日 (1909年)
- 家族
- 養父=梅若 六郎(51代目・氏暘),長男=梅若 万三郎(初代),二男=梅若 実(2代目)
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梅若実【うめわかみのる】
能楽師。観世流シテ方。維新後,能楽再興の基礎を築く。宝生九郎の位,桜間伴馬伴馬の技(わざ)に対し,情の能を得意として明治三名人とうたわれた。息子の梅若万三郎,梅若六郎(2世実)をきびしく教育し,万六時代と称される能の黄金時代を招く。観世華雪は娘婿。2世実〔1878-1959〕は前名六郎。梅若流を樹立し,兄万三郎,義弟華雪が観世復帰後も孤塁を守ったが,曲折ののち1954年息子の梅若六郎一門と観世流に復帰した。巧緻艶麗(こうちえんれい)な芸風で,特に劇的な心理表現にすぐれた。1955年芸術院会員。
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梅若 実(2代目)
ウメワカ ミノル
明治〜昭和期の能楽師(観世流シテ方) 梅若家16代目。
- 生年
- 明治11(1878)年4月28日
- 没年
- 昭和34(1959)年8月16日
- 出生地
- 東京
- 本名
- 梅若 氏康(ウメワカ ウジヤス)
- 別名
- 幼名=梅若 竹世,前名=梅若 六郎(54代目)
- 経歴
- 先代梅若実の次男。明治33年54代梅若六郎を襲名。免状発行問題のこじれから大正10年観世宗家から破門され、兄の万三郎らと梅若流を興し、兄の観世流復帰とともに梅若流を守った。昭和23年に隠居して梅若実。29年息子の梅若六郎の代に観世流に戻って、長い“観梅問題”に決着がついた。30年芸術院会員。著書に「梅若実聞書」がある。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
梅若実
没年:明治42.1.19(1909)
生年:文政11.4.13(1828.5.26)
明治時代の能楽師。観世流シテ方。幼名亀次郎,のち六之丞,六郎。実は隠居名。実父は寛永寺御用達鯨井平左衛門。梅若六郎氏暘の養子となり,天保10(1839)年に家督を継ぐ。明治維新で観世宗家が将軍徳川慶喜に従い静岡に移ると,流儀の実質上の統率者としての責務を負い,免状の発行などを行うが,これがのちに一時的に梅若流が立つことになる「梅若問題」を引き起こすことになった。感覚的で才気溢れる芸風で,宝生九郎,桜間伴馬と共に明治三名人とされる。維新の変動期にあって,東京にとどまり演能を続け,後進の育成に当たるなど能楽復興への功績は大きい。<参考文献>池内信嘉『能楽盛衰記』
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
梅若実(2世)
うめわかみのる[にせい]
[生]1878
[没]1959
能楽師。観世流シテ方。1世梅若実の次男,前名竹世,景昭,実邦。一度六郎を継いだ姉婿の観世清之が実家に帰ったあと,六郎を継ぎ当主となる。長兄万三郎 (1世) とともに観世宗家から離脱して,一時梅若流を樹立,最後まで孤塁を守ったが,1948年隠居後,実を名のり,54年観世流に復帰した。日本芸術院会員。優艶華麗の芸風の持主であった。
梅若実(1世)
うめわかみのる[いっせい]
[生]文政11(1828)
[没]1909
能楽師。観世流シテ方。輪王寺宮御用達鯨井平左衛門の子。梅若六郎氏暘の養子,前名亀次郎,六之丞,六郎。江戸城西丸奥詰。明治維新後,能楽衰亡のときに演能の努力を重ねて復興に努めた。 16世宝生九郎,桜間左陣とともに明治三名人といわれた。
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梅若実(初代) うめわか-みのる
1828-1909 幕末-明治時代の能楽師シテ方。
文政11年4月13日生まれ。観世流梅若六郎氏暘(うじあき)の養子となり,安政6年六郎を襲名,六郎氏実(うじざね)と名のる。明治5年隠居,実と改名。維新の混乱期に観世流の統率者として能楽界につくす。16代宝生(ほうしょう)九郎,桜間伴馬(ばんま)とともに明治の三名人といわれた。明治42年1月19日死去。82歳。江戸出身。本姓は鯨井。前名は梅若六之丞。
梅若実(2代) うめわか-みのる
1878-1959 明治-昭和時代の能楽師シテ方。
明治11年4月28日生まれ。初代梅若実の次男。明治33年梅若六郎を襲名。大正10年兄の初代梅若万三郎,6代観世銕之丞(てつのじょう)(のち華雪)と梅若流をおこし,観世流から独立。昭和23年隠居して2代実を名のる。29年観世流に復帰した。30年芸術院会員。昭和34年8月16日死去。81歳。東京出身。
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梅若 実(2代目) (うめわか みのる)
生年月日:1878年4月28日
明治時代-昭和時代の能楽師
1959年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
世界大百科事典(旧版)内の梅若実の言及
【観世流】より
…観世流の幕末までの伝承曲は,内組110番・外組62番に別能28番を加えた200番である。 明治維新のとき,22世三十郎清孝(1837‐88)は前将軍に従って静岡に引きこもったので,東京の観世流は,初世梅若実と分家5世観世銕之丞(紅雪)とによって守られ,衰滅を免れて復興にむかったが,これが遠因となっていわゆる梅若問題(免状発行をめぐる紛争)が生じた。梅若は[丹波猿楽]の旧家だが(旧姓梅津),15世紀後半,景久の代に京都に進出,その芸が後土御門天皇の意にかなって梅若大夫の称をもらったという。…
※「梅若実」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」