棟に沿い背割りした長屋のこと。鎌倉・室町時代に諸国の大名が、京都で勤務する家臣の住居としたのに始まり、江戸時代、武家は「御(お)長屋」、町家が「割長屋」として発達した。路地裏の裏長屋は、間口9尺(約2.7メートル)、奥行2間(約3.6メートル)、広さ1坪半(約5平方メートル)の零細住宅で、壁は隣家と共用。一戸分の宅地に数十戸の借家を建て込む場合もあった。長屋の前の排水溝の蓋(ふた)が通路になり、突き当たりに共用の便所、井戸、ごみためが置かれた。共用便所は江戸で後架(こうか)、京坂では惣雪隠(そうせっちん)とよばれた。明治以後も都市への人口集中の結果、裏長屋形式は引き継がれ、最下層の都市住居として昭和になってからも残存した。便所を各戸の裏手へ突き出して取り付けたり、入口の土間に流しを設置し、押入れを普及させるなどの改良もみられたが、居住水準の劣悪な狭小住宅に変化はなかった。裏長屋での「井戸端会議」は情報交換の場として知られる。
[佐々木日嘉里]
1棟の家を壁で仕切り,数軒にした長屋。江戸などの近世都市では,通りに面した町屋の裏側に数棟ずつたてられていた,いわゆる裏長屋をいう。1軒の規模は間口9尺(約2.7m),奥行2間(約3.6m),面積3坪(約9.9m2)程度で,間取は土間と畳敷の1部屋のみ。井戸と便所とごみためは共同で使用された。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…その形態は,個々の敷地内に1間幅ほどの路地をはさんで長屋が数棟建ち並び,その一画には住人共用の井戸,便所,ごみためが必ずまとまって配置されていた。長屋の1戸分は間口9尺,奥行き2間(俗に9尺2間の棟割長屋という)が標準で,内部は出入口のある路地側に台所を兼ねた土間があり,4畳半か6畳ほどの部屋が1部屋とれる程度の狭小なものであった。したがってこのような裏店が密集した地区の人口密度はかなり高かった。…
…これが10~20戸集まって1棟になっていた。長屋の平面は部屋が一列に並ぶのが普通であるが,平面のまん中,長手方向に通る棟の下で分けて,2列の部屋にする〈棟割長屋(むねわりながや)〉も多かった。屋根は板葺きで材料も造りも悪かった。…
※「棟割長屋」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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