森山城跡(読み)もりやまじようあと

日本歴史地名大系 「森山城跡」の解説

森山城跡
もりやまじようあと

[現在地名]日高町森山 赤城

円山まるやま川の支流知見ちみ川の西岸、森山集落の東側、標高一〇八・一メートルの独立丘陵に所在し、比高は約三一メートル。城域は東西約一三〇メートル・南北約二三〇メートル。小佐おさ(八鹿町)から知見越を経て西にし谷に入るルートを押える要衝に位置している。

〔縄張り〕

主郭部は尾根の鞍部に位置する曲輪(東西一七メートル・南北二三メートル)と、その南北に構築された南曲輪・北曲輪からなる。北曲輪は東西二五メートル・南北四〇メートルあり、二段に仕切られている。南曲輪は上段の曲輪(東西一五メートル・南北三〇メートル)とその西側の下段の曲輪(東西一一メートル・南北二二メートル)からなる。南曲輪はいずれも南隅(堀切側)に、高さ一―一・五メートルの土塁を構築している。主郭部の西ノ下の谷部には登城ルートが想定でき、谷筋の左右に四段の曲輪を配置している。主郭部の南・北・東側斜面の七―八メートル下には主郭部を取巻くように、北側に横堀と二本の竪堀、東側に横堀と四本の竪堀群、南側に堀切・竪堀を構築し、主郭部の防御をより強固なものにしている。


森山城跡
もりやまじようあと

[現在地名]小見川町岡飯田

旧常陸国境の利根川右岸に置かれた中世の城跡。築城された当時はおそらく広大な香取海の一部の潟湖か、それに連なる川筋に臨んでいたと考えられる。また当城は香取・海上うなかみの郡境にも位置し、千葉常胤の六男東胤頼が築城したとも伝えるが(下総国旧事考)、千葉介昌胤の庶子胤富が弘治三年(一五五七)千葉宗家を継ぎ、本佐倉もとさくら(現酒々井町)に移るまで在城した城として知られる。千葉氏領国の北辺を守る重要な拠点で、胤富の跡には粟飯原胤次が入り、以後同氏が代々居城したという(千葉大系図)。永禄七年(一五六四)と推定される九月六日の千葉胤富書状(原文書)には「(森山カ)地新(曲)輪」とあり、この新曲輪の守備に野平・木村両氏を配し、当城にかかわる大儀の普請については来年まで免除することを海上中務少輔・石毛大和守に伝えている。


森山城跡
もりやまじようあと

[現在地名]春野町森山

森山の南、なかの標高二四・二メートルの丘陵鞍部にある。城跡は山林・畑となっているが、詰ノ段と思われる約三〇〇平方メートルの平坦部が確認される。

築城年代は不詳であるが、戦国時代、土豪森山氏が居した。森山氏は森山・秋山あきやま甲殿こうどの中島なかじま(現土佐市)を領有していたが、天文一五年(一五四六)一条氏の東進でその勢力下に入り、弘治三年(一五五七)本山氏に降った。「編年紀事略」に「古キ苗歌ニ、森山ヲセメン其日ノヒルホドニ筆ヲソロヘテ書ケドツキセズヨメドツキセズ、ヤガテ其日ノホリノ埋草トアルハ、此城攻ノコトヲ謡ルナルベシ」と記す。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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