森山村(読み)もりやまむら

日本歴史地名大系 「森山村」の解説

森山村
もりやまむら

[現在地名]美保関町森山

島根半島東部の南側に開け、東は高尾たかお山を境にふく浦、西は辻堂つじどう山、露抜つゆぬき(大床山)を境として下宇部尾しもうべお村、北は高尾山、大谷おおたに(高通山)なかたに(八景ヶ峰)を境とし片江かたえ七類しちるい諸喰もろくいの三浦と接する。南は中海(入海)から日本海へ出る中江なかえの瀬戸(現境水道)を隔てて伯耆国会見あいみ東外江ひがしとのえ(現鳥取県境港市)に相対する。西方字本谷ほんだにから関谷せきだに川、北方字滝の下たきのしたから伊屋谷いやだに川、北東字土地谷とちだにから宇井うい川などが南流する。南側の平野部を通称美保関往還が東西に通る。関谷入口より関谷西平にしびらの山裾を谷沿いに登り辻堂に至る約八〇〇メートルを殿様とのさま街道とよび、松江藩主の美保神社参拝時に利用されたといわれる(美保関町誌)。西方字出口でぐちで北に折れ片江浦に至る道、東方字宇井から北へ折れ七類浦への道が通る。当村は西から駒谷こまがたに・関谷輪、横田よこた輪、伊屋谷輪、殿川内とのがわつ田尻たじり輪の四つの区画に分れていた(文久二年「島根郡村浦有高輪切帳」広島大学附属図書館蔵)。「出雲国風土記」島根郡に「郡家の正東二十里一百八十歩なり」と記される戸江とえのせきは当地にあったといわれ、サルガはな洞窟遺跡近くの関谷・古関ふるせきの地名がその名残と考えられている。古代の対岸はまだ半島ではなく夜見よみ島という島であったという。

森山村
もりやまむら

[現在地名]国見町森山

徳江とくえ村の北に位置し、東は西大窪にしおおくぼ村・西大枝にしおおえだ村、西は藤田ふじた村、北は石母田いしもだ村。南部に水田が開け、北部は上野原わのはら台地。台地の南には、北西から南東にかけてたき川が流れ、水田中央部を東西に藤田と梁川やながわ(現梁川町)を結ぶ街道が通る。地名は上野原に樹木が多かったことによるという(明治一四年「森山村誌」国見町史)。当地域には平安時代初め頃と推定される条里の遺構が近年まで残されていた。

天文七年(一五三八)の段銭古帳に伊達西根だてにしねのうちとして「もり山」とみえ、段銭は一二貫五〇〇文。村内には中世の館跡が二ヵ所ある。一ヵ所は字辻西つじにしにあり、永正年中(一五〇四―二一)に築かれたといい、天正(一五七三―九二)末年に会津蘆名氏の重臣平田氏の一族平田五郎が伊達氏の家臣となって住したという(森山村誌)。他の一ヵ所は字薬師東やくしひがしにあり、伊達氏の宿老富塚氏が住した(「富塚家譜」伊達世臣家譜)。同氏の祖先は出雲国の目代として富塚郷に住したので富塚を名乗り、五代左兵衛尉隆継は文治年間(一一八五―九〇)常陸国に移住して中村念西(のちの伊達朝宗)に仕え、のち念西に従って伊達郡に移った。一八代宗隆は伊達尚宗の代にその宿老となった。二一代仲綱は伊達稙宗に仕え、稙宗・晴宗父子による天文の乱に際し、稙宗方として戦死、所領は晴宗に没収されたという(同家譜)

森山村
もりやまむら

[現在地名]森山町森山本村名もりやまほんむらみよう森山田尻名もりやまたじりみよう森山慶師野名もりやまけいしのみよう

現森山町域の北西部に位置する。南に獅子喰ししくら岳があり、三反田さんたんだ川が流れる。江戸時代は諫早いさはや郷に属し、一時期を除き肥前佐賀藩親類同格の諫早家領。正保国絵図に森山村とみえ、高一三七石余。当村地先の干潟では干拓が進められ、寛文一三年(一六七三)に諫早家家臣の陣野孫右衛門信清父子が完成させた万灯まんとう籠がある(万灯邑宝塔記)元禄国絵図でも高一三七石余で、元禄年間(一六八八―一七〇四)の鍋島綱茂領中配分石高帳(長崎図書館蔵)では地米高一一五石余。天明七年(一七八七)の佐賀領村々目録でも村高は変わらない。享和三年(一八〇三)造成の亥築いつき籠、文化一二年(一八一五)の九平次開などが続いて田畑の増加をみている(多良山麓研究)

森山村
もりやまむら

[現在地名]吾川村森山・竹屋敷たけやしきとうこえ潰溜つえだまり大渡おおどきた大尾おおお

下菜しもなかわ村のほぼ南に位置し、南を仁淀によど川が東方に曲流する。菜ノ川村の枝村で、集落は山間に散在する。天正一八年(一五九〇)の菜川地検帳にはトヲ村二八筆、ツヱタマリ四六筆、森山村三六筆、大尾村一九筆、大ト村三三筆が記される。屋敷地はトヲ村に大蔵居の竹屋敷三反二七代二歩と五良カミ居のヲカタ屋敷三反二歩、ツヱタマリに市助居のツヱタマリノヲカタ屋敷二反一代、森山村に森山新介居の森山ヲカタ屋敷六反二一代二歩、大ト村に後藤兵衛居の大トヲカタ屋敷七反六代二歩などがみえ、とくに大ト村には一反以上の屋敷地をもつ者が八名も居住している。

森山村
もりやまむら

[現在地名]日立市森山町一―五丁目・森山町・大沼おおぬま町一丁目・同三丁目・水木みずき町二丁目

東側は多賀山地丘陵で、東麓から東側に海岸段丘面が広がる。南寄りを森山川が東流し、ほぼ中央を岩城相馬いわきそうま街道が縦貫する。東と南は水木村。海岸段丘面上に宮脇みやわき遺跡・塙前はなわまえ遺跡・ひがし遺跡・森山古墳群、多賀山地丘陵上に台原だいはら遺跡など、縄文時代早期から古墳時代後期の遺跡がある。

寛永一二年(一六三五)の水戸領郷高帳先高に「森山村」とあり、元禄一〇年(一六九七)の安藤朴翁著「常陸帯」には「守山」と異記される。

森山村
もりやまむら

[現在地名]三輪町森山

目配めくばり山の南西麓にあたり、栗田くりだ村の北西にある。秋月藩の元和九年(一六二三)の知行高目録(「長興公御代始記」県史資料二)栗田村があげられ、「但森山村松林村共ニ」と記される。松林まつばやし村は当村の内。同藩初代藩主黒田長興の時代に栗田村から分村したという(続風土記)。元禄国絵図・天保郷帳とも同村枝村とする。文政元年(一八一八)の年貢米九〇二俵余・大豆一四〇俵余(「夜須郡御物成帳」秋月黒田家文書)

森山村
もりやまむら

[現在地名]三光村森山

犬丸いぬまる川が中流域で方向を北西から北東に転ずる地点の東岸にあり、南は田口たぐち村、北は加来かく(現中津市)。文保二年(一三一八)七月二五日の田口成任譲状(田口文書)に「一、鬼丸名内田地分 一所二反杜山前河原田」とあり、川原田かわらたという字名が現在もみえる。中世はこの村を妙法寺みようほうじ村といったらしく、正平一七年(一三六二)正月一一日の玄釈等連署寄進状(深山八幡宮文書)に「下毛郡妙法寺之村内 一反 土穴」がみえ、応永一三年(一四〇六)八月一五日には同地を一万田三河守が深山ふかやま八幡宮(現朝地町)に寄進している(「市万田三河守寄進状」同文書)。この地は建武元年(一三三四)二月九日沙弥円証が嫡子弥四郎宗平へ譲った(「沙弥円証置文」湯屋文書)

森山村
もりやまむら

[現在地名]春野町森山

西畑さいばた村の北に丘陵を隔てて位置し、北は新川しんかわ川が東流、西は仁淀によど川が南流する。「土佐州郡志」に「東限秋山村種間寺山北、西限高岡如来堂森、南限西畑村、北限弘岡、東西三十八町南北十町余、其土多砂」とある。戦国時代までは中島なかじま(現土佐市)秋山あきやま甲殿こうどのなどをも領有していた森山氏の本貫の地であった。天正一七年(一五八九)の仲村郷森山地検帳によると屋敷数一八四。

森山村
もりやまむら

[現在地名]大野市森山

清滝きよたき川右岸にあって、同川扇状地の扇頂部近くに位置する。北東は西山にしやま村、西は木本領家このもとりようけ村。一六世紀中頃までは印内村と称した。永享一二年(一四四〇)四月の春日社領越前国大野郡小山庄田数諸済等帳(天理図書館蔵)に「院内領家方田数御年貢等事」として公田七段のほか、薬師堂修理田一段、春日御神田五節供料二段半とある。

慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図に「印内村」高一二五・五五石とある。

森山村
もりやまむら

[現在地名]宇佐市森山

じよう村・今井いまい村の北にあり、東は荒木あらき村、西はたか村。一二世紀半ば頃宇佐大宮司宇佐公通によって開発された平田別符に発達した村といい、公通は平田冠者と称して当地に居宅を構えたという。「豊前志」によると、当村の田の字にある「田城、西の門、東の門、泉水、築山、御花畑、馬場、弓場」などの地名はみな公通の居館の名残という。また平田別符の中心であったため、古くは平田村と称したともいう。年未詳九月二〇日の大友義統感状(吉村韓太文書)によると吉村但馬守は「平田村」で新城築造に馳走したことを賞されている。また同じく年未詳二月八日の大友義統感状(渡辺功文書)によれば、渡辺加賀守は「平田表」で橋津衆と懸合い、終日の防戦を賞されている。

森山村
もりやまむら

[現在地名]小諸市森山

小諸城下・御影新田みかげしんでんいち村・耳取みみとり村などの村々に囲まれた浅間山(二五四二メートル)の火山灰地帯で、付近には数条の田切たぎり地形が発達している。

記録に現れるのは中世も末期に近く、天正二年(一五七四)の大井文書には大井おおい庄一二郷の脇郷とされている。大井庄地頭大井氏に属する地侍森山氏がここに城を構え、甲斐武田氏の佐久侵入にあたっては、天文一二―一三年(一五四三―四四)頃森山成繁・満繁がほかの佐久衆とともに武田に下る。武田氏滅亡後の佐久の混乱期には、最後は徳川家康麾下の依田信蕃に従い(依田記)、森山俊盛は大権現(家康)より「鉄炮五挺・玉薬三十放および黄金をたまふ、且其近辺与羅が遺跡ことごとく是をたまはり」、依田(松平)氏が上野国藤岡ふじおか城へ去るにあたり、森山盛房がこれに従って森山を去る(寛永諸家系図伝)

森山村
もりやまむら

[現在地名]日高町森山

篠垣しのがき村の南、三方みかた盆地の南部に位置する。集落東方の丘陵に中世の森山城跡があり、年未詳一二月一七日付の安田千松丸宛の垣屋続成感状案(垣谷文書)に、「亡父源三郎続貞、去年六月十四日於森山城討死候、誠御忠節無比類候」とみえる。この文書を嘉吉二年(一四四二)かとみる意見があり(日高町史)、「孫三郎続貞」は嘉吉元年六月に一子千代王丸宛に譲状を作成しているものの(垣谷文書)、名前は完全に一致せず、安田千松丸は明応四年(一四九五)にもみえる(同年一一月二一日「山名政豊書下案」同文書)

森山村
もりやまむら

[現在地名]岩崎村森山

北は正道尻しようどうじり村、南は松神まつかみ村に接する。西の日本海に面して森山崎があり、その後背地について、正保二年(一六四五)津軽郡之絵図に「いと尻の間小舟壱艘入 東南風舟かゝり吉」とある。

同年の津軽知行高之帳の鼻和はなわ郡に二三・〇三石とあり、うち田方は五・二三石とある。貞享元年(一六八四)の郷村帳に高七七・七石とあり、同四年の検地帳に村高四二・二九一石、うち田方三五・五一石、畑方六・七八一石とあり、除地として八幡社地がある。元禄三年(一六九〇)には赤石組に属し、村位は下とあるが、享保一二年(一七二七)村位は中となった(平山日記)

森山村
もりやまむら

[現在地名]大鰐町森山

ひら川西岸にあり、北は石川いしかわ(現弘前市)、南は三ッ目内みっめない村、東は平川を隔てて鯖石さばいし(現弘前市鯖石)に接する。

天文年間(一五三二―五五)の津軽郡中名字に「森山」とある。

正保二年(一六四五)の津軽知行高之帳の平賀ひらか郡に高一三六石、うち田方一二六・四九石とある。寛文四年(一六六四)の高辻帳でも村高は変わらない。貞享四年(一六八七)の検地帳では、村高が三三四・二五二石、うち田方三〇八・一七八石、畑方二六・〇七四石、田位は上田から下々田まである。

森山村
もりやまむら

[現在地名]大洲市森山

大洲市の東南部、ひじ川南岸沿いの小村。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)喜多きた郡の項に「森山村 茅山有、川有」とある。大洲藩領。享和元年(一八〇一)の「大洲旧記」に「沖ノ城もりたるごとくの山なる故森山村といふ」とある。

森山村
もりやまむら

[現在地名]美和町森山

北は中橋なかばし村に、東は木田きだ村に接する。「寛文覚書」に戸数二一、人数一〇九とある。「徇行記」によれば、概高四二二石余のうち三五六石余が藩士五人の給知。田は一三町九反五畝余、畑は八町四反一畝余で、「耕田不足ナル故ニ丹波村・木田村・青塚村ノ田畝ヲ承佃シテ佃力ノ多足トス(中略)用水ハ東ノ大江通リ木田村ノウラ水門ヨリカヽレリ」とある。

森山村
もりやまむら

[現在地名]美濃加茂市森山町一―六丁目

上古井かみこび村の枝郷。本郷の東、飛騨川沿いにある。「濃州徇行記」によれば尾張藩概高一一七石余。家数二四ほどであるが、天明飢饉以後農夫が減少し弊民ばかりの貧村となる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報