改訂新版 世界大百科事典 「森岩雄」の意味・わかりやすい解説
森岩雄 (もりいわお)
生没年:1899-1978(明治32-昭和53)
映画製作者。横浜生れ。日本映画に〈プロデューサー・システム〉を導入して,東宝の映画事業の基盤をつくり,また日本の〈アート・シアター〉の命名者,創立者としても知られる。
大正の中期から昭和の初期にかけて外国映画の輸入をし,映画評論や脚本を書き,F.モルナールの《リリオム》の翻案といわれる村田実監督《街の手品師》(1925)のシナリオライターとして,創立10年余りをへて新しい知識と才能を求めていた日活に招かれた。企画本部に〈金曜会〉を設け,みずからも〈新しくは装えど古き女の悲劇〉と銘うった《椿姫》(1927)などのシナリオを書いて,村田実,溝口健二,阿部豊,田坂具隆,内田吐夢らの監督たちに企画やシナリオを提供し,当時,沈滞の色が濃かった日活に生気をあたえた。
その後,トーキー技術の開発を目的として1932年に発足したPCL(写真化学研究所Photo-Chemical Laboratoryの略称)に入り,33年に製作専門のPCL映画製作所が創立されたとき取締役製作部長となり,PCLが東宝に発展して変遷する間,製作面の責任者として要職を歴任する。PCL時代の企画・製作作品には,意図は野心的でも日本の生活様式と生活感情にそぐわないオペレッタ映画や,ふざけた漫才映画なども多く,PCLとは〈ポーク・カツレツ・ラード揚げ〉の略であると評されたほどであったが,組織的な面では大きな功績を残した。それは,アメリカ映画のシステムに学んで,封建的な体質であった日本の映画事業経営に,合理化と近代化をとり入れたことである。まず,長い間の経験と勘にたよってずさんな製作費を計上する悪習を排して予算制度を確立し,これによって映画事業も初めて〈複式簿記の段階〉に達したとさえいわれた。次いで契約制度を確立して人間関係を近代化し,権限を監督に集中する松竹流の監督中心主義,いわゆる〈ディレクター・システム〉に対して,製作の全体を組織化し,プロデューサーそれぞれの創意と個性によって作品に生気と多様性をあたえることを理想とする〈プロデューサー・システム〉を試み,映画界の古い体質を支えてきた常識や慣習に挑戦した。
その後,〈清く正しく美しい〉健全娯楽を持論としながら,日中戦争と太平洋戦争の期間を通じて〈戦意高揚映画〉をつくり,戦後の47年,戦犯指定と追放を予測して東宝を退社した。しかし52年には役員に復帰し,のち専務,副社長をへて相談役となる。71年に映画の斜陽化とともに東宝の危機が深刻化したときには,アメリカその他の国で映画の黄金時代を誇った撮影所中心の大量生産方式が崩壊した際,それが新しいユニット・プロ方式によって息を吹きかえしつつあった事実を例にひき,それにならって撮影所の製作部門を分離して独立会社とする方針を説いたといわれる。
アメリカの製作者,脚本家ドーリ・シャリーの《Case History of a Movie》(1950)を紹介解説した《映画製作者の仕事》(1955),そしてそれに加筆した《映画製作の実際》(1976),《アメリカ映画製作者論》(1965)その他の著書がある。
執筆者:柏倉 昌美
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報