八田元夫(読み)ハッタ モトオ

20世紀日本人名事典 「八田元夫」の解説

八田 元夫
ハッタ モトオ

昭和期の演出家,劇作家 元・東演(劇団)代表者。



生年
明治36(1903)年11月13日

没年
昭和51(1976)年9月17日

出生地
東京・本郷

学歴〔年〕
東京帝大美学科〔大正15年〕卒

経歴
在学中から演劇記者となり、秋田雨雀の先駆座に参加、大正15年トランク劇場に演出助手兼俳優として参加。全国映画従業員組合東京支部委員長、プロレタリア戯曲研究会に参加。昭和6年新築地劇団演出部に入り、「検察官」「天祐丸」「どん底」などの演出を担当した。15年新築地劇団の強制解散で検挙、懲役2年執行猶予3年の判決。出獄後、丸山定夫らの移動劇団桜隊に参加。21年第2次新協劇団に参加、スタニスラフスキー・システムの研究と実践を続け34年下村正夫と東京演劇ゼミナール(劇団東演前身)を創設三好十郎の「廃墟」「その人を知らず」などを演出した。著書に戯曲「まだ今日のほうが!」「私は海峡を越えてしまった」、演劇論「演劇と対話」などがある。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「八田元夫」の意味・わかりやすい解説

八田元夫
はったもとお
(1903―1976)

演出家、劇作家。東京生まれ。東京帝国大学美学科卒業。在学中先駆座に参加。プロットのプロレタリア戯曲研究会などを経て、1932年(昭和7)新築地(つきじ)劇団に入り、『天佑丸(てんゆうまる)』『浮標(ぶい)』などを演出。40年検挙、出獄後苦楽座移動隊(のち桜隊)に参加。第二次世界大戦後共産党入党、新協劇団に参加。59年(昭和34)下村正夫と東京演劇ゼミナール(のち劇団東演)を創設、三好十郎(みよしじゅうろう)の作品や自作『まだ今日のほうが!』(1962)、『私は海峡を越えてしまった』(1968)などを演出。著書に『演出論』(1936)ほかがある。

[祖父江昭二]

『『私は海峡を越えてしまった 八田元夫戯曲集』(1977・新日本出版社)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「八田元夫」の解説

八田元夫 はった-もとお

1903-1976 昭和時代の演出家,劇作家。
明治36年11月13日生まれ。新築地(つきじ)劇団にはいり,「浮標(ブイ)」などを演出。戦後は新協劇団を再建。昭和34年下村正夫と劇団東演を結成,三好十郎の作品や自作「まだ今日のほうが!」などを演出した。昭和51年9月17日死去。72歳。東京出身。東京帝大卒。著作に「演出論」など。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「八田元夫」の解説

八田 元夫 (はった もとお)

生年月日:1903年11月13日
昭和時代の演出家;劇作家。全国映画従業員組合東京支部委員長
1976年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の八田元夫の言及

【新協劇団】より

… 第2次大戦後,村山が再建にのりだし,46年2月には再建第1回公演を持った。薄田(すすきだ)研二,八田元夫(1903‐76)のほか,新派の井上正夫も一時期これに参加した。しかし〈50年問題〉といわれる共産党の内部抗争の影響を受け,1951年薄田,岡田英次ら演技陣の大量脱退者が出るにおよんで弱体化し,59年に薄田らの中央芸術劇場と合体して東京芸術座となった。…

※「八田元夫」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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