椎原村(読み)しいばるむら

日本歴史地名大系 「椎原村」の解説

椎原村
しいばるむら

[現在地名]泉村椎原

川辺かわべ(五木川)の上流、椎原川左岸流域にある。左岸地区は右岸に比して多くの狭い谷が椎原川に直角に切込んでいる。地形上渓谷沿いの小径が交通路となっていたと思われ、当地区への進出経路は左岸、五箇庄ごかのしようの東南方面からとみられる。それを裏付けるように、東南の久連子くれこ村とともに仁田尾にたお村とは別の伝承をもち、平家の後胤を誇っている。


椎原村
しいばむら

[現在地名]早良区椎原

脇山わきやま村の南、北流する椎原川流域にある。北東は小笠木おかさぎ村、北西は西にし村。背振せふり山北麓に位置する。肥前国との国境の村で、酒盛さかもり山・おにはな、王丸(大丸)山、小爪こつめ嶺などを越えて南は同国神埼かんざき久保山くぼやま(現佐賀県脊振村)。村名は「シヒバル」ともよばれた(地理全誌)。近世には脇山郷(横山郷)八ヵ村の一。慶長七年(一六〇二)の検地高三二三石余(慶長石高帳)。元禄五年(一六九二)には高三三三石余、家数四二・寺一、人数二五九(田圃志)。元禄国絵図では当村の枝郷として荒谷あらや村、当村の内として小爪村・北田きただ村が記される。


椎原村
しいばらむら

[現在地名]下市町大字原谷はらだに

杣谷そまたに村の南に立地御領ごりよう郷のうち。慶長郷帳では村高九六・三三三石、幕府領(代官大久保長安)。のち延宝検地で村高は一〇七・三七三石となった。

享保一七年(一七三二)の大和国吉野郡椎原村指出帳では村高一〇七・三七三石、本百姓一四、水呑百姓五、人数一〇九(男六七、女四二)、紙漉船四艘をもち、「作間ニ少々宛漉申候」とある。


椎原村
しいばらむら

[現在地名]下田市椎原

箕作みつくり村の西、東流する稲生沢いのうざわ川の北側、南流する稲梓いなずさ川の西側に位置する。北条氏所領役帳には諸足軽衆の礒彦七郎の役高として五〇貫文「伊豆ノ奥椎原郷」とみえる。天正一四年(一五八六)一〇月一八日、北条氏は三嶋社(三嶋大社)祭銭を未進している椎原など一〇ヵ所から祭銭を徴収することを同社神主らに認めた(「北条家朱印状」三嶋大社文書)。同一八年一一月の椎原村御縄打水帳(伊豆下田)によると田畑一八町一反余、屋敷一千一一九坪・所有者一八人。江戸時代の領主変遷大沢おおさわ村と同じ。


椎原村
しいばるむら

[現在地名]野津町東谷ひがしだに 椎原

奥畑おくばた村の東、西流する吉田よしだ川支流椎原川流域にある。野津氏庶家椎原氏の名字の地。天文一八年(一五四九)三月二一日の野津院とめ田名三貫分坪付(沓掛文書)にとめ田名のうち「椎原河内」とみえ、三貫分は「にたゝ」三段、「くりの木越」の山野・まちほり、「ふちか」の山野・まちほり、「せはうち」のまちほりなどであった。また同月二三日の野津院とめ田名三段坪付(同文書)には椎原河内三段の坪付がみえ、前掲坪付とほぼ同じ内容が注進されている。


椎原村
しいばるむら

[現在地名]椎葉村下福良しもふくら 椎原

鹿野遊かなすび村の東、十根とね川左岸に位置する。下福良掛三九ヵ村の一つで、十根川組に属する。日向国覚書に椎葉山之村形の一村として椎原とみえる。延享三年(一七四六)に検地竿入がなされ、畑二反余(高二斗余)が打出された(天明元年「椎葉山高反別取米一村限帳控」内藤家文書)。文政一一年(一八二八)の下福良村組焼畑見取場検地帳(相良家文書)では焼畑二町余・高二石二斗余。天保九年(一八三八)の椎葉山村々高覚(同文書)では高二石四斗余。寛延二年(一七四九)の村柄様子書上帳(同文書)には「畑地ハ少有之木立焼畑所無之いつとなく困窮仕申候、此以後精ヲ出し相稼申候ハヽ渡世も取続村も繁昌可仕かと奉存候」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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