権田雷斧(読み)ゴンダライフ

デジタル大辞泉 「権田雷斧」の意味・読み・例文・類語

ごんだ‐らいふ【権田雷斧】

[1847~1934]仏教学者。真言宗の僧。新潟の生まれ。奈良の長谷寺修学豊山派ぶざんは管長・大正大学学長を歴任。著「密教綱要」など。

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精選版 日本国語大辞典 「権田雷斧」の意味・読み・例文・類語

ごんだ‐らいふ【権田雷斧】

  1. 仏教学者。真言宗の僧。越後国新潟県)の生まれ。大和長谷寺で修学。一時曹洞宗に転じたが、再び真言宗に帰り、豊山派管長・豊山大学学長・大正大学学長を歴任。著に「曼荼羅通解(まんだらつうげ)」「密教綱要」など。弘化三~昭和九年(一八四六‐一九三四

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20世紀日本人名事典 「権田雷斧」の解説

権田 雷斧
ゴンダ ライフ

明治〜昭和期の僧侶(真言宗) 真言宗豊山派第2代管長;大正大学学長。



生年
弘化3年12月22日(1847年)

没年
昭和9(1934)年2月7日

出生地
越後国三島郡(新潟県)

経歴
真言宗豊山派に属する正法寺住職快阿の長男。6歳で出家、11歳で長谷寺に登り、倶舎、唯職、因明を学ぶ。明治5年曹洞宗に改宗雷斧と改名するが、11年真言宗豊山派に復籍、正法寺住職となる。34年豊山派管長兼総本山化主に就任、41年豊山大学長、大正15年大正大学へ合同するに伴いその教授となり、昭和3年同学長、5年自坊へ帰った。この間、大正5年東大で両部曼荼羅を講じ、13年中国潮州に渡り伝法灌頂を行う。教相、事相両面にわたって最高の碩学と仰がれ、近代における真言宗の代表的学僧とされる。著書に「密教綱要」「続絃秘曲」「我観密教発達志」など多数。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「権田雷斧」の意味・わかりやすい解説

権田雷斧
ごんだらいふ
(1846―1934)

明治・大正時代の真言宗豊山(ぶざん)派の僧。越後(えちご)(新潟県)の人。快鑁(かいばん)、秀盛(しゅうせい)、行誠(ぎょうせい)に師事し、華厳(けごん)、天台も学んだ。曹洞(そうとう)宗に転派したが、のち豊山派に帰る。1901年(明治34)豊山派管長、1908年に新義真言宗豊山大学学長に就任。1924年(大正13)真言密教を中国に再興しようとして渡航し、潮州(ちょうしゅう)(広東(カントン)省東部)開元寺(かいげんじ)において南京(ナンキン)の碩学(せきがく)、慧剛(えごう)、王弘願居士(おうぐがんこじ)(1876―1937)以下4名に伝法灌頂(でんぽうかんじょう)を授けた。豊山大学、根来大伝法院(ねごろだいでんぽういん)において伝法院流を伝授。1928年(昭和3)大正大学学長に就任した。著書に『曼荼羅通解(まんだらつうげ)』『続絃秘曲(ぞくげんひきょく)』などがある。

[吉田宏晢 2017年7月19日]

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「権田雷斧」の解説

権田雷斧 ごんだ-らいふ

1847*-1934 明治-昭和時代前期の僧,仏教学者。
弘化(こうか)3年12月22日生まれ。大和(奈良県)長谷寺の快鑁(かいばん)らにまなぶ。一時,曹洞(そうとう)宗に転じるが,真言宗に復帰。明治34年豊山(ぶざん)派管長。のち豊山大学長,大正大学長を歴任。近代密教学の研究で知られる。昭和9年2月7日死去。89歳。越後(えちご)(新潟県)出身。字(あざな)は快識。号は順基房。著作に「密教綱要」「曼荼羅(まんだら)通解」など。

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367日誕生日大事典 「権田雷斧」の解説

権田 雷斧 (ごんだ らいふ)

生年月日:1847年12月22日
明治時代-昭和時代の密教学者
1934年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

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