江戸後期の歌人。幼名五三郎。諱(いみな)は茂時、のち尚事。43歳のとき曙覧と改名。越前(えちぜん)国福井の名門紙商正玄(しょうげん)五郎右衛門の次男だが家嗣(つ)ぎとなる。正玄家は井手左大臣橘諸兄(たちばなのもろえ)の後裔(こうえい)といわれる。母は府中(ふちゅう)(越前市)酢(す)商山本平三郎三女鶴(つる)子。2歳で母に死別し山本家に養われた。15歳で父に死別し、まもなく家に帰り業を継いだが、国学を志し、飛騨(ひだ)高山在住、本居宣長(もとおりのりなが)門の国学者田中大秀(おおひで)に入門する。1846年(弘化3)35歳のとき家を継弟宣(せん)に譲って、福井の背後の山足羽(あすわ)山腹に移住する。37歳の年、福井郊外三橋(みつはし)町に移り、藁屋(わらや)と号した。藩主松平春岳(しゅんがく)がこの家を訪れて教えを受け、志濃夫廼舎(しのぶのや)の号を与えた。ついで「奉仕せよ」との使いを出したが拒絶した。次の藩主の茂昭が67年(慶応3)から年米十俵の扶持(ふち)を与えた。明治維新の際出征する門下の藩士に激励の歌を送るが、慶応(けいおう)4年8月28日没。坂井(さかい)郡大安寺(だいあんじ)(福井市)万松(まんしょう)山に葬る。『囲炉裡譚(いろりがたり)』(1860)、『志濃夫廼舎歌集』などがある。国粋思想の持ち主であって、臨終のとき王政復古を熱望した。
[辻森秀英]
『土岐善麿校註『日本古典全書 宗武・曙覧歌集』(1950・朝日新聞社)』▽『辻森秀英著『歴代歌人研究10 橘曙覧』(1938・厚生閣)』
江戸末期の歌人。幼名五三郎,後に茂時,さらに尚事(なおこと)と改めた。志濃夫廼舎(しのぶのや)などの号がある。越前国福井の旧家正玄(しようげん)家に生まれた。正玄家は橘諸兄の後裔といわれる。曙覧という名は,43歳で大病を患ったおり,本姓の橘にちなんで赤実(あけみ)の意味でみずからつけたものである。家業は紙商であったが,幼いころから詩歌,学問を好み,若くして京都,江戸に遊学した。やがて1844年(弘化1)飛驒高山に行き,本居宣長の高弟田中大秀(おおひで)に入門,2年後に家督を異母弟にゆずって,福井の足羽(あすわ)山に隠居し文事に専念した。尊皇愛国,王政復古の志篤く,そうした心情をうたった作も多いが,貧乏な生活,あるいは子らへの愛情を,自在率直な発想と大胆な用語で表現した短歌によって知られる。〈たのしみは妻子(めこ)むつまじくうちつどひ頭ならべて物をくふ時〉などを含む〈独楽吟〉52首が有名である。家集に,嗣子井手今滋(いでいましげ)編《志濃夫廼舎歌集》(1878)がある。
執筆者:佐佐木 幸綱
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(飯倉洋一)
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1812.5.-~68.8.28
江戸後期の歌人。父は越前国福井の紙商五郎右衛門。姓は正玄(しょうげん)。橘諸兄の39世の子孫にあたることから橘と改姓。初名茂時(しげとき)・尚事(なおこと)。通称は五三郎。号は志濃夫廼舎(しのぶのや)・黄金舎・藁屋(わらのや)・賜松館・忍屋など。田中大秀(おおひで)に師事して和歌・国学を学び,国粋思想を信奉した。中島広足・大田垣蓮月らとの交流が知られる。法号白雲嶺上埋剣居士。家集「志濃夫廼舎歌集」。
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