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橘曙覧 たちばな あけみ

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美術人名辞典の解説

橘曙覧

幕末の国学者・歌人。越前生。紙商正玄五郎右衛門の子。初名は尚事、のち曙覧、幼名は五三郎、号に霊隠・黄金舎・志濃夫迺舎等。家業を弟に譲り学を志し、児玉子敬に漢学、さらに田中大秀に宣長派の国学を学ぶ。北陸の国学を復興させ、福井藩主松平慶永からも寵遇された。著書に『藁屋文集』『榊の薫』等、家集に『志濃夫迺舎歌集』がある。明治元年(1868)歿、57才。

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デジタル大辞泉の解説

たちばな‐あけみ【橘曙覧】

[1812~1868]江戸末期の歌人・国学者。越前の人。姓は井手とも。号、志濃夫廼舎(しのぶのや)。田中大秀に国学を学び、「独楽吟(どくらくぎん)」など清新で自由な歌風を生んだ。家集「志濃夫廼舎歌集」など。

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百科事典マイペディアの解説

橘曙覧【たちばなあけみ】

江戸末期の歌人。姓は井手。号は志濃夫廼舎(しのぶのや)など。生家は福井石場町の紙商。初め日蓮宗の僧明導に仏教学・詩歌を学ぶ。以後国学を志し,飛騨高山の田中大秀(おおひで)に入門,本居宣長の学統を承継。
→関連項目万葉調

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

橘曙覧 たちばな-あけみ

1812-1868 江戸時代後期の国学者,歌人。
文化9年5月生まれ。越前(えちぜん)(福井県)の人。本居門の田中大秀(おおひで)にまなぶ。家業の紙商を弟にゆずって福井郊外で国学をおしえる。藩主松平慶永(よしなが)に出仕をすすめられたが辞退。国粋思想をとなえ,万葉調の歌をよんだ。慶応4年8月28日死去。57歳。本姓は正玄(しょうげん)。初名は茂時,のち尚事(なおこと)。号は志濃夫廼舎(しのぶのや)など。家集に「志濃夫廼舎歌集」など。
【格言など】たのしみはとぼしきままに人集め酒飲め物を食へといふ時(「橘曙覧歌集」)

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朝日日本歴史人物事典の解説

橘曙覧

没年:明治1.8.28(1868.10.13)
生年:文化9.5(1812)
江戸末期の歌人。通称五三郎,姓名ははじめ正玄尚事。号は志濃夫廼舎,黄金舎など。越前国福井石場町に生まれる。父は紙商正玄五郎右衛門,母は山本平三郎の娘都留子。弘化1(1844)年以前に正玄姓を橘に,安政1(1854)年に名を曙覧に改名した。曙覧は橘の朱い実からきている。2歳にして母に,15歳にして父に死別,仏門に入ろうとして越前国南条郡妙泰寺の僧明導に仏学を学んだがまもなく実家に戻り天保3(1832)年に結婚。同10年家業を異母弟に譲り,15年,飛騨の田中大秀に入門し,1カ月滞在した。弘化3年,全家財を異母弟に譲り,足羽山に黄金舎を結んで教授で生計を立てたが窮乏生活は免れなかった。やがて福井藩士中根雪江に見いだされ,藩主松平慶永(春岳)の知るところとなり,志濃夫廼舎の号を授かるなど寵愛を受ける。『万葉集』の素朴さを重んじ,素材の枠を超えて自由に感情を表現することを主張し,のちに正岡子規にも絶賛された。国粋主義を鼓吹する和歌も残している。家集に『志濃夫廼舎家集』(1878)がある。

(飯倉洋一)

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世界大百科事典 第2版の解説

たちばなあけみ【橘曙覧】

1812‐68(文化9‐明治1)
江戸末期の歌人。幼名五三郎,後に茂時,さらに尚事(なおこと)と改めた。志濃夫廼舎(しのぶのや)などの号がある。越前国福井の旧家正玄(しようげん)家に生まれた。正玄家は橘諸兄の後裔といわれる。曙覧という名は,43歳で大病を患ったおり,本姓の橘にちなんで赤実(あけみ)の意味でみずからつけたものである。家業は紙商であったが,幼いころから詩歌,学問を好み,若くして京都,江戸に遊学した。やがて1844年(弘化1)飛驒高山に行き,本居宣長の高弟田中大秀(おおひで)に入門,2年後に家督を異母弟にゆずって,福井の足羽(あすわ)山に隠居し文事に専念した。

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大辞林 第三版の解説

たちばなあけみ【橘曙覧】

1812~1868) 江戸末期の国学者・歌人。姓は井手とも。号、志濃夫廼舎しのぶのや。福井の人。田中大秀に学ぶ。万葉調の個性的な歌を詠む。著「志濃夫廼舎歌集」など。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

橘曙覧
たちばなあけみ

[生]文化9(1812).5. 福井
[没]慶応4(1868).8.28. 福井
江戸時代後期の国学者,歌人。姓は井手。名は尚事。号は藁屋,志濃夫廼舎 (しのぶのや) 。福井の旧家に生れ,橘諸兄 39世の後裔といわれる。日蓮宗の僧明導によって詩歌へ導かれ,本居宣長門下の田中大秀の教えを受けた。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

橘曙覧
たちばなあけみ
(1812―1868)

江戸後期の歌人。幼名五三郎。諱(いみな)は茂時、のち尚事。43歳のとき曙覧と改名。越前(えちぜん)国福井の名門紙商正玄(しょうげん)五郎右衛門の次男だが家嗣(つ)ぎとなる。正玄家は井手左大臣橘諸兄(たちばなのもろえ)の後裔(こうえい)といわれる。母は府中(ふちゅう)(越前市)酢(す)商山本平三郎三女鶴(つる)子。2歳で母に死別し山本家に養われた。15歳で父に死別し、まもなく家に帰り業を継いだが、国学を志し、飛騨(ひだ)高山在住、本居宣長(もとおりのりなが)門の国学者田中大秀(おおひで)に入門する。1846年(弘化3)35歳のとき家を継弟宣(せん)に譲って、福井の背後の山足羽(あすわ)山腹に移住する。37歳の年、福井郊外三橋(みつはし)町に移り、藁屋(わらや)と号した。藩主松平春岳(しゅんがく)がこの家を訪れて教えを受け、志濃夫廼舎(しのぶのや)の号を与えた。ついで「奉仕せよ」との使いを出したが拒絶した。次の藩主の茂昭が67年(慶応3)から年米十俵の扶持(ふち)を与えた。明治維新の際出征する門下の藩士に激励の歌を送るが、慶応(けいおう)4年8月28日没。坂井(さかい)郡大安寺(だいあんじ)(福井市)万松(まんしょう)山に葬る。『囲炉裡譚(いろりがたり)』(1860)、『志濃夫廼舎歌集』などがある。国粋思想の持ち主であって、臨終のとき王政復古を熱望した。[辻森秀英]
『土岐善麿校註『日本古典全書 宗武・曙覧歌集』(1950・朝日新聞社) ▽辻森秀英著『歴代歌人研究10 橘曙覧』(1938・厚生閣)』

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