歌仙の絵姿を描き,そこに詠歌や略伝を書き添えたもの。藤原公任撰出の三十六歌仙を描く作例が多い。平安時代の歌合の盛行は歌論の発達を促し,古今の優れた歌人に対する尊崇の念を強めた。すでに11世紀には歌仙として最も尊崇されていた柿本人麻呂の像を描かせることが始まっていたようで,12,13世紀には人麻呂の画像をまつって歌道精進を祈念する人麻呂影供(えいぐ)の歌会が盛んに行われている。古聖人の像を描くことは,古くは奈良時代に始まる釈奠(せきてん)での孔子像の例があり,その他紫宸殿の賢聖障子や888年(仁和4)に巨勢金岡が描いた詩聖の像などが知られる。人麻呂影供の画像は,こうした賢聖や詩聖を描く唐絵の伝統に対するやまと絵側の動き,すなわち題材やモティーフを日本固有のものに求め始めた新しい動向を反映するものと考えられる。また12世紀後半には賀茂神社に,当時実在した歌人の姿を描き詠歌を書き添えた障子絵があったことも知られる。この時代から13世紀前半にかけての似絵(にせえ)の勃興は,肖像画に対する新しい関心を呼んだ。歌仙絵はこうした時代背景の上に流行した過去の人物の想像上の肖像画と言える。現存する最古の作例は13世紀前半の佐竹本《三十六歌仙絵巻》であるが,各歌人の個性は似絵の手法によって表現されている。三十六歌仙絵はこのほか上畳(あげだたみ)本や伝後鳥羽院本,業兼(なりかね)本など着彩や白描の多様な作例が見られ,13世紀は三十六歌仙絵の高揚期である。また公任撰の三十六歌仙にならって〈女房三十六歌仙〉や〈釈教三十六歌仙〉といった類似の歌仙を新撰することも行われ,絵画化された。室町から桃山時代になると,歌仙絵は神社の扁額にも描かれ,滋賀白山神社の土佐行広筆《三十六歌仙扁額》や川越東照宮の岩佐又兵衛筆のものなどが著名である。近世にあっては古典復興の機運の下で愛好された古典的素材の一つとなり,《休息歌仙》や群像の三十六歌仙絵など新奇な表現様式のものも生まれた。尾形光琳の《三十六歌仙図》屛風は,とくにそのパロディ精神が注目される。
執筆者:佐野 みどり
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
和歌に秀でた歌人の画像。鎌倉初期から江戸時代まで盛行し、普通、歌人の肖像にその歌1首を、ときに略伝を添えたものをさす。六歌仙や三十六歌仙などの歌仙の姿絵を画題に扱うことは鎌倉時代の初めごろから盛行するが、その原因としては、当時の和歌の流行と似絵(にせえ)(大和絵(やまとえ)肖像画)の隆盛とが結び付いて興隆したものと考えられている。その後近世に至るまで巻物、画帖(がじょう)、扁額(へんがく)などの諸形式にわたって制作され、遺品の数も多い。なかでも藤原信実(のぶざね)絵・後京極良経(ごきょうごくよしつね)書と伝える佐竹家旧蔵の『三十六歌仙絵巻』(鎌倉時代)がもっとも有名。もと2巻からなり、柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)以下36人の歌仙を似絵の形式で描いたものであるが、現在は1像ずつ切断されて諸家に分蔵されている。また上畳(あげだたみ)本とよばれるものは、各歌仙が上畳の上に座す姿で描かれ、やはり巻物であったのが分断されて伝わり、ほかに『釈教三十六歌仙絵巻』の断簡も伝存している。近世には形式も多岐にわたり、ことに神社に奉納する扁額に歌仙絵が盛んに用いられ、岩佐勝以(いわさかつもち)(又兵衛)筆の『三十六歌仙絵額』(川越市・喜多院(きたいん))などが残る。このほか狩野探幽(かのうたんゆう)筆『新三十六歌仙画帖』や尾形光琳(こうりん)筆『三十六歌仙図屏風(びょうぶ)』なども有名である。
[村重 寧]
『森暢編『新修日本絵巻物全集19 三十六歌仙絵』(1979・角川書店)』
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
米テスラと低価格EVでシェアを広げる中国大手、比亜迪(BYD)が激しいトップ争いを繰り広げている。英調査会社グローバルデータによると、2023年の世界販売台数は約978万7千台。ガソリン車などを含む...
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加