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巨勢金岡 こせの かなおか

美術人名辞典の解説

巨勢金岡

平安前期の画家。巨勢派開祖。姓は紀。中納言野足の子。もと難波氏、初釆女正に任じられ、清和・陽成・光孝・宇多及び醍醐王朝に仕えて官大納言に至る。仏像画を多く描いた。晩年は剃髪して仁和寺に閑居した。延喜年間歿したと伝えられる。

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百科事典マイペディアの解説

巨勢金岡【こせのかなおか】

9世紀後半に活躍した平安朝の宮廷画家。巨勢派の始祖。868年―872年宮廷の神泉苑の監を勤め,菅原道真に神泉苑図(しんせんえんず)を求められ,また紀長谷雄(きのはせお)らとも交友があり,社会的地位は高かった。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

巨勢金岡 こせの-かなおか

?-? 平安時代前期の画家。
巨勢派の始祖。唐絵(からえ)を和様化し,のちの大和絵の成立に影響をあたえた。元慶(がんぎょう)4年(880)大学寮の「先聖先師九哲像」,仁和(にんな)元年(885)藤原基経(もとつね)の50歳の賀をかざった屏風(びょうぶ)絵などが知られるが,作品は現存しない。

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朝日日本歴史人物事典の解説

巨勢金岡

生年:生没年不詳
平安前期の絵師。巨勢派の祖。菅原道真の『菅家文草』巻1によれば,貞観年間(859~877),道真が神泉苑の監である巨先生(金岡)に神泉苑の画図を請うたという。これは,唐代絵画の伝統を離れて,日本的主題の風景画が描かれた早い例である。元慶4(880)年,唐本をもとに大学寮の先聖先師九哲像を図する。仁和1(885)年,藤原基経の五十賀屏風を描く。4年,勅により御所南庇の東西障子に,弘仁年間(810~824)以後の鴻儒の詩に巧みな者の詩の状を図する。寛平7(895)年,源能有の五十賀屏風を描く。また,清涼殿,仁和寺御室に描いた馬形が,夜々絵からはなれて萩などを食ったと伝える(『古今著聞集』)。作品は現存しない。

(長谷川稔子)

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世界大百科事典 第2版の解説

こせのかなおか【巨勢金岡】

9世紀後半の宮廷画家。生没年不詳。百済河成(くだらのかわなり)に次いで名をうたわれたが,河成とは異なり文献によって具体的な画業が知られ,以後代々宮廷の絵所で活躍する巨勢派の始祖となった。菅原道真ら当代一流の文化人と親交があり,古来画名が高く,伝承作品は多いが,真跡と認められるものは現存しない。《菅家文草》によれば,造庭にも優れ,貞観年間(859‐877)には神泉苑の監をつとめ,道真からその実景を描くことを求められている。

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大辞林 第三版の解説

こせのかなおか【巨勢金岡】

平安初期の宮廷画家。肖像画の名手として伝わる。画風は唐絵で、日本的な画題をも扱い「新様」と称されたという。金岡筆の確実な作品はない。生没年未詳。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

巨勢金岡
こせのかなおか

平安時代初期 (9世紀後半) の日本画家。巨勢派の祖。作品は伝存しないが文献に多くの事跡をとどめ,唐風の絵画様式を日本化するうえで重要な役割を果したと考えられる。元慶4 (880) 年唐画に基づいて大学寮に孔子と門人たちの肖像を描き,仁和4 (888) 年御所の南びさしの東西障子に,詩にすぐれた日本の儒者の像を描いた。また同1年に太政大臣藤原基経および大納言源能有の 50歳の賀の屏風の絵を担当している。しかもそれらは菅原道真をはじめ当時一流の文人や能書家との共作に成り,その絵が「新様」と評されたことも注目される。金岡はまた造園にも秀でて宮廷の神泉苑の監をつとめ,道真のためにその風光を描いた。子孫も画技を世襲して宮廷絵所 (えどころ) に中心的位置を占め,巨勢派として中世に及んだ。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

巨勢金岡
こせかなおか

生没年不詳。平安前期、9世紀後半を代表する絵師。巨勢派の祖。その名は、同時代人であった菅原道真(すがわらのみちざね)の詩文集『菅家文草(かんけぶんそう)』中に敬称を伴って記されており、生存中より高名であったことが知られる。遺品は残されていないが、880年(元慶4)に大学寮の先聖先師九哲の像を描いたのをはじめ(『江次第抄(ごうしだいしょう)』)、屏風絵(びょうぶえ)や障子絵を制作したことが文献に記されている。また廷臣として、当時の宮苑(きゅうえん)であった神泉苑の監を務め、作庭も行っていた。この神泉苑の風光を描くことを道真より求められていることから、金岡は中国的な画題のほかに日本的な画題も扱ったと考えられ、金岡において、日本の絵画は唐絵(からえ)的な要素を残しつつも、和様化の傾向を深めていったと推定されている。[加藤悦子]

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世界大百科事典内の巨勢金岡の言及

【石組み】より

…〈いわぐみ〉とも読み,石立て,石くばりとも称する。《拾芥抄》には〈石を畳む〉という平安時代初めの記事が見られ,巨勢金岡(こせのかなおか)が神泉苑監として平安京神泉苑の石組みを行ったことが知られる。また平安時代の造園書《作庭記》では〈石を立てる〉と表現され,その立て方を大海,大河,山河,池沼,葦手(あしで)の五つに分けて説いている。…

【神泉苑】より

…湧泉から池までの流れは,滝とも呼ばれる瀑流をなし,小橋を架け,滝殿を構えた。池の北岸には神泉苑監で画家として著名な巨勢金岡(こせのかなおか)が立てた庭石が数多くあった。神泉苑は立地がよく,豊富な水をもつ大規模な自然園に近い園池に人工的な部分を加えたもので,池に南面して左右対称の堂々たる建築をもっており,まもなく寝殿造や浄土庭園として形を整えてゆく前駆をなすものであった。…

※「巨勢金岡」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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