9世紀後半の宮廷画家。生没年不詳。百済河成(くだらのかわなり)に次いで名をうたわれたが,河成とは異なり文献によって具体的な画業が知られ,以後代々宮廷の絵所で活躍する巨勢派の始祖となった。菅原道真ら当代一流の文化人と親交があり,古来画名が高く,伝承作品は多いが,真跡と認められるものは現存しない。《菅家文草》によれば,造庭にも優れ,貞観年間(859-877)には神泉苑の監をつとめ,道真からその実景を描くことを求められている。また885年(仁和1)に太政大臣藤原基経の50歳の賀の,895年(寛平7)には大納言源能有の50歳の賀の屛風を制作した。そのほか880年(元慶4)唐本によって孔子およびその門人たちの像を大学寮に写し(《江次第抄》),888年(仁和4)には御所の南庇の障子に,弘仁(810-824)以後の詩にすぐれた日本の儒者の姿を図した(《扶桑略記》)ことが知られている。また有名な伝説として,仁和寺御室において金岡が描いた壁画の馬が,夜々近所の田を荒らすので,その目をくり抜いて難をのがれたという話などが挙げられる。中国的主題や技法による唐絵を描くとともに神泉苑の実景や日本の儒者をも描き,その画風は〈新様〉と呼ばれていることから,唐風一辺倒の当時の絵画界に日本風を吹きこんだ最初の画家といえよう。
執筆者:田口 栄一
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生没年不詳。平安前期、9世紀後半を代表する絵師。巨勢派の祖。その名は、同時代人であった菅原道真(すがわらのみちざね)の詩文集『菅家文草(かんけぶんそう)』中に敬称を伴って記されており、生存中より高名であったことが知られる。遺品は残されていないが、880年(元慶4)に大学寮の先聖先師九哲の像を描いたのをはじめ(『江次第抄(ごうしだいしょう)』)、屏風絵(びょうぶえ)や障子絵を制作したことが文献に記されている。また廷臣として、当時の宮苑(きゅうえん)であった神泉苑の監を務め、作庭も行っていた。この神泉苑の風光を描くことを道真より求められていることから、金岡は中国的な画題のほかに日本的な画題も扱ったと考えられ、金岡において、日本の絵画は唐絵(からえ)的な要素を残しつつも、和様化の傾向を深めていったと推定されている。
[加藤悦子]
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(長谷川稔子)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
生没年不詳。平安前期の宮廷絵師。巨勢派の始祖。880年(元慶4)唐本を手本に大学寮に先聖先師像を,888年(仁和4)御所南庇(ひさし)の東西障子に弘仁以後の詩にすぐれた学者の像を描くほか,藤原基経や源能有(よしあり)の五十の賀の屏風絵を描いた。貞観年間には神泉苑の監を勤め,菅原道真から神泉苑の図を求められた。唐絵(からえ)とともに日本の山水や肖像を描くなど,その画風は新様とよばれた。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…〈いわぐみ〉とも読み,石立て,石くばりとも称する。《拾芥抄》には〈石を畳む〉という平安時代初めの記事が見られ,巨勢金岡(こせのかなおか)が神泉苑監として平安京神泉苑の石組みを行ったことが知られる。また平安時代の造園書《作庭記》では〈石を立てる〉と表現され,その立て方を大海,大河,山河,池沼,葦手(あしで)の五つに分けて説いている。…
…湧泉から池までの流れは,滝とも呼ばれる瀑流をなし,小橋を架け,滝殿を構えた。池の北岸には神泉苑監で画家として著名な巨勢金岡(こせのかなおか)が立てた庭石が数多くあった。神泉苑は立地がよく,豊富な水をもつ大規模な自然園に近い園池に人工的な部分を加えたもので,池に南面して左右対称の堂々たる建築をもっており,まもなく寝殿造や浄土庭園として形を整えてゆく前駆をなすものであった。…
※「巨勢金岡」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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