岩佐又兵衛(読み)イワサマタベエ

デジタル大辞泉 「岩佐又兵衛」の意味・読み・例文・類語

いわさ‐またべえ〔いはさまたべヱ〕【岩佐又兵衛】

[1578~1650]江戸初期の画家。戦国の武将荒木村重の末子。あざな勝以かつもち又兵衛は通称。初め福井に住み、晩年を江戸で過ごした。土佐派雲谷うんこくなど和漢の画法を学び、人物画などに独自の画風を展開した。浮世又兵衛ともよばれ、浮世絵の創始者とする説もある。

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精選版 日本国語大辞典 「岩佐又兵衛」の意味・読み・例文・類語

いわさ‐またべえ【岩佐又兵衛】

  1. 江戸初期の絵師。安土桃山時代の武将・茶人荒木村重の子。名は勝以(かつもち)幕府の招きで江戸に住す。土佐派、狩野派などの画法を学んで独自の画風を開く。作「三十六歌仙図額」ほか。天正六~慶安三年(一五七八‐一六五〇

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改訂新版 世界大百科事典 「岩佐又兵衛」の意味・わかりやすい解説

岩佐又兵衛 (いわさまたべえ)
生没年:1578-1650(天正6-慶安3)

江戸初期の画家。字は勝以(かつもち),又兵衛は通称。伊丹城主荒木村重の子と伝えられる。村重が織田信長に反逆し,その一族は処刑されたが,彼は難を逃れ,京都本願寺に隠れて母方の姓を名のり,京で成長したという。在京時代は織田信雄(のぶかつ)に仕えたともいい,また二条家に出入りした形跡がある。1615年(元和1)ころに越前北ノ庄(現,福井市)へ下り,松平忠直,忠昌の恩顧を受け,工房を擁して本格的な絵画制作を行ったと思われる。37年(寛永14)に江戸へ下り,そこで没した。江戸下向の道中記《廻国道之記》が知られ,この時期の代表作に川越東照宮の《三十六歌仙図額》(1640)がある。落款をもつ作品には,やまと絵や漢画の手法を幅広くとりいれた和漢の物語・故事に取材した人物画が多いが,古典の人物を卑俗な現世的人物像に仕立てなおす解釈に又兵衛の強い個性と生い立ちを反映する屈折した心理が読みとれる。一方,無款ながら様式的に又兵衛と工房の制作と推定されている《山中常盤絵巻》をはじめとする古浄瑠璃や説経節の正本を用いた絵巻や風俗画が存在する。美人風俗画の確実な遺品はないが,在世中から浮世又兵衛のあだ名で呼ばれており,寛永期風俗画に大きな影響を与えたことが推測される。従来は否定的見解が強かった又兵衛浮世絵開祖説も別の角度から再検討されよう。又兵衛が活躍した寛永年間には,幕府権力と結びついた探幽ら狩野派の活動や,経済力を背景に新たな文化の担い手となった本阿弥光悦,角倉素庵,俵屋宗達らの上層町衆の創造的な活動と並んで,数多くの風俗画作品をのこした町絵師と呼ばれる無名の画家たちの広範な活動が注目される。こうした在野的な性格をもつ又兵衛の作品に一貫して流れるエキセントリックな表現の調子は,この時期に確立,強化される幕藩体制から脱落していく没落武士階級の退廃的なエネルギーの発散を象徴している。桃山から江戸への過渡期にあたる多彩な寛永文化の一側面を代表する重要な画家の一人である。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「岩佐又兵衛」の意味・わかりやすい解説

岩佐又兵衛
いわさまたべえ
(1578―1650)

江戸初期の画家。摂津国伊丹(いたみ)城主荒木村重(むらしげ)の子。名は勝以(かつもち)、通称又兵衛、道蘊(どううん)、碧勝宮(へきしょうぐう)と号した。2歳のときに父は織田信長に敗れ、母は六条河原で処刑された。又兵衛はからくも乳母(うば)に救われ、京都で育った。家門の再興をあきらめて母方の姓といわれる岩佐に改姓、師承関係は明らかでないが、画家として身をたてることになる。元和(げんな)年間(1615~24)の初めごろ越前(えちぜん)福井(北之庄(きたのしょう))に移って藩主松平忠直(ただなお)の厚遇を受け、皮肉な風刺を利かせた和漢の人物画(東京国立博物館ほかの『旧金谷屏風(かなやびょうぶ)』や熱海(あたみ)・MOA美術館の『人麿(ひとまろ)、貫之(つらゆき)像』など)や極彩色の古浄瑠璃(こじょうるり)絵巻(MOA美術館の『山中常盤(ときわ)物語絵巻』と『浄瑠璃絵巻』など)に個性的な作風を展開させた。1637年(寛永14)、妻子を残して福井をたち、江戸へ出て川越東照宮の『三十六歌仙額』(1640)などを制作、そのまま江戸で没した。「長頬豊頤(ちょうきょうほうい)」の特徴をもつ豊満な美人画像の典型を生み、時様の風俗画にも新風を開いて、世に「浮世又兵衛」とうわさされる。菱川師宣(ひしかわもろのぶ)に始まる浮世絵の様式的素地を準備し、英一蝶(はなぶさいっちょう)にも影響を与えた。子の勝重(?―1673)は、父が江戸へ出てのちも福井にとどまり、松平藩の御用絵師として活躍した。

[小林 忠]

『辻惟雄著『日本美術絵画全集13 岩佐又兵衛』(1980・集英社)』

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知恵蔵mini 「岩佐又兵衛」の解説

岩佐又兵衛

江戸時代初期の絵師。又兵衛は通称で、本名は勝以(かつもち)。1578(天正6)年に戦国武将の荒木村重の子として摂津・有岡城(現兵庫県伊丹市)で生まれた。翌79(同7)年、村重が主君・織田信長に謀反を起こして失敗し、 一族の多くが処刑されたが、又兵衛は落城間際に救出され、石山本願寺にかくまわれた。その後は母方の姓「岩佐」を名乗り、信長の息子織田信雄に近習小姓役として仕えたという。文芸や画業などの諸芸をもって主君に仕える御伽衆のような存在だったとされている。40歳くらいの時、越前福井藩に招かれて福井へ移住し、20年あまりをこの地で過ごし、60歳くらいの時に3代将軍徳川家光の娘・千代姫が尾張徳川家に嫁ぐ際の婚礼調度制作を命じられ、江戸に移り住んだ。多くの名作を残し1650(慶安3)年に江戸で没している。卓越した技巧と独特の妖しさで、大和絵から漢画、人物から動物まで、あらゆる絵画に通じていた。主な作品は「山中常盤物語絵巻」「上瑠璃物語絵巻」「旧金谷屏風」「三十六歌仙図」「洛中洛外図屏風」などがある。2014年放映のNHK大河ドラマ「軍師勘兵衛」の中にも登場し、その人物について話題となった。

(2014-8-20)

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百科事典マイペディア 「岩佐又兵衛」の意味・わかりやすい解説

岩佐又兵衛【いわさまたべえ】

江戸初期の画家。名は勝以(かつもち)。伊丹城主荒木村重の末子。2歳のとき一族は織田信長に滅ぼされたが,又兵衛は救出され母方の岩佐姓を名乗って京都で成長。織田信雄(のぶかつ)の小姓を務めながら画才を伸ばす。1615年福井へ行き,1637年江戸に招かれて,川越東照宮に歌仙絵額を制作,江戸で没する。歌仙絵,故事人物図など和漢にまたがる伝統的画題に当世風の卑俗味を加えた独特の画風が特色。〈浮世又兵衛〉とあだ名された。
→関連項目英一蝶福井県立美術館

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「岩佐又兵衛」の解説

岩佐又兵衛 いわさ-またべえ

1578-1650 織豊-江戸時代前期の画家。
天正(てんしょう)6年生まれ。荒木村重の子。母方の姓岩佐を名のり,のち越前(えちぜん)(福井県)北庄(きたのしょう)藩主松平忠直(ただなお)・忠昌(ただまさ)につかえる。寛永14年将軍徳川家光にまねかれ,江戸にうつる。土佐派,狩野(かのう)派などの影響をうけつつ独自な画風をひらく。浮世絵の名人として,浮世又兵衛ともよばれた。署名作品に「三十六歌仙図」「人麿・貫之像」など。ほかに「山中常盤(やまなかときわ)絵巻」などの濃彩絵巻群や風俗図が又兵衛とその工房の作とみなされている。慶安3年6月22日死去。73歳。名は勝以。号は道蘊,碧勝宮。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「岩佐又兵衛」の解説

岩佐又兵衛
いわさまたべえ

1578~1650.6.22

江戸前期の絵師。摂津国伊丹城主荒木村重の子。岩佐は母方の姓,名は勝以(かつもち),又兵衛は通称。道蘊(どううん)・碧勝宮(へきしょうぐう)と号した。1637年(寛永14)江戸に上る。土佐派・狩野派などを修得し,古典的な題材に当世風の卑俗さを加えた新しい画風で,菱川師宣(もろのぶ)以後の浮世絵様式の基礎を形成。代表作「柿本人麿・紀貫之像」「三十六歌仙絵額」「耕作図屏風」。

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旺文社日本史事典 三訂版 「岩佐又兵衛」の解説

岩佐又兵衛
いわさまたべえ

1578〜1650
江戸前期の風俗画家
本名は勝以 (かつもち) 。荒木村重の末子。越前福井藩に仕え徳川家光の招きで江戸に移った。土佐派に狩野派の画風をあわせ独自の風俗画を描いた。代表作に川越市東照宮蔵『三十六歌仙絵額』など。

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