生没年未詳。鎌倉中期の宮廷画家、歌人。一説に文永(ぶんえい)2年(1265)12月15日没、89歳。藤原隆信(たかのぶ)の子、定家(ていか)の甥(おい)にあたる。20代前半まで隆実(たかざね)と称す。廷臣として仕え、中務権大輔(なかつかさごんのたいふ)を経て1231年(寛喜3)には正四位下、左京権大夫(さきょうごんのだいぶ)となる。晩年に出家し、寂西(じゃくせい)と号す。父隆信の肖像画の技法を受け継いで、似絵(にせえ)を発展・完成させた。1218年(建保6)には『中殿御会(ちゅうでんぎょかい)図巻』(模本が現存)を描き、また21年(承久3)には承久(じょうきゅう)の乱ののち隠岐(おき)に配流される直前の後鳥羽(ごとば)院の肖像画を描いたことが記録されている。33年(天福1)には当時の著名な歌人36人の肖像画を描くなど、その盛んな作画活動が知られる。伝称作品も多いが、大阪府・水無瀬(みなせ)神宮蔵の『後鳥羽院像』(国宝)は似絵の技法による優品で、前述の記録にもよく当てはまる。また『随身庭騎(ずいしんていき)絵巻』(東京・大倉集古館)、『三十六歌仙絵巻』(佐竹(さたけ)本)にも信実の描いた部分が含まれていると考えられる。歌人としても活躍し、『新勅撰(ちょくせん)集』などの歌集にその作品が選入されているほか、家集『信実朝臣(あそん)集』も現存する。さらに説話集『今(いま)物語』も著しており、その多才さがうかがわれる。
[加藤悦子]
鎌倉時代の画家,歌人。父は藤原隆信。初名を隆実といい,備後守,左京権大夫に任ぜられ正四位下に叙せられた。1248年(宝治2)ころ出家し寂西と号した。父の画才をうけおもに鎌倉時代肖像画の新分野である似絵(にせえ)の画家として名声を得た。後鳥羽院御幸あらましの図,四季絵,後堀河院の北面・下﨟・随身像など多くの作画記録があるが,後鳥羽院と似絵の愛好で知られる後堀河院の時代に集中する。確証を欠くが《中殿御会図巻》(模本現存),《後鳥羽天皇像》(水無瀬神宮),《随身庭騎絵巻》(大倉文化財団)の一部は信実筆と推定されている。《後鳥羽天皇像》は,1221年(承久3)落飾直前に後鳥羽院が信実に描かせ母七条院に贈ったと《吾妻鏡》の記す作品に該当する可能性がある。彼の子孫には似絵画家として名を残す者が多く,似絵の画技が同一家系に存続したことを物語っている。家集に《藤原信実朝臣集》があり,《今物語》の作者と伝える。
執筆者:米倉 迪夫
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(相澤正彦)
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1176?~1265?
鎌倉前・中期頃の公家。父隆信と同じく絵画や和歌にすぐれ,位も正四位下左京権大夫に至る。大阪水無瀬神宮に伝わる「後鳥羽院像」(国宝)が,信実の手になると考えられる。短い線を何本も慎重に引き重ねて,像主の面貌をとらえる技法が特色。大倉集古館「随身庭騎絵巻」(国宝),佐竹本「三十六歌仙絵巻」などの作品は,信実とその家系に連なる画家たちの共同制作と想定される。信実の家系は南北朝期頃まで続き,いわゆる似絵(にせえ)の家系として知られる。自撰歌集「藤原信実朝臣歌集」を残す。
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…この作例は同時に次代への道を開く似絵の先駆的作品として位置づけることができる。隆信の子藤原信実に至り似絵は新しいジャンルとして確立し,似絵の用語例も彼の活躍期以降現れるのである。信実の作と推定されている《後鳥羽上皇像》(水無瀬神宮)は似絵の代表作の一である。…
※「藤原信実」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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