正念寺(読み)しようねんじ

日本歴史地名大系 「正念寺」の解説

正念寺
しようねんじ

[現在地名]高千穂町上野

菅木すげきにある。玄武山と号し、浄土真宗本願寺派本尊阿弥陀如来。天正年間(一五七三―九二)玄武げんぶ城主吉村惣右衛門種供が大友氏に攻められ死亡したため、その父道休が正善(種供の養育係)とともに種供を弔うため慶長(一五九六―一六一五)の初めに寺をつくり、称名山正念寺と称したと伝える(正念寺四百年史)。元禄四年(一六九一)妙専寺由緒書(妙専寺文書)によれば延岡妙専みようせん寺の末寺

正念寺
しようねんじ

[現在地名]新井市姫川原 城下

姫川原ひめがわら集落中央付近にあり、浄土真宗本願寺派、本尊阿弥陀如来。越前国北庄きたのしよう(現福井市)に居住していた梨本左衛門尉基春が、蓮如の弟子となり、正念坊暁元と改名、文明三年(一四七一)北庄に一寺を建立、正念坊と称した。三世暁円のとき現在地に移り、慶長年中(一五九六―一六一五)の本願寺東西分派のとき東本願寺派に属し、正保二年(一六四五)四世暁賢のときに西本願寺派に転派した。

正念寺
しようねんじ

[現在地名]玉造町谷島

浄土宗、得生山宝地院と号し、本尊は阿弥陀如来。創建の時期は不明であるが、水戸藩主徳川光圀が玉造村内の川向かわむこうから現在地に移転させたと伝承される。開基帳(彰考館蔵)には「信太郡江戸崎大念寺末寺正念寺上人、高三石弐斗九升七合、弥陀免除分、是慶長年中御縄打之時代当寺開山上人成ニ致上洛申候留守故知行之訴訟ふ申候云々」と記され、「新編常陸国誌」には「モト玉造村ニアリ、近世コヽニ移ス、元禄年間藩主源光(ママ)ノ修補シタル弥陀ノ木像ヲ安ズル西念寺ト云ハ此寺ナルベシ」とある。

正念寺
しようねんじ

[現在地名]尾道市西久保町

亀山かめやま八幡神社南東にあり、来迎山と号し、時宗。本尊阿弥陀如来。天正二年(一五七四)覚阿弥陀仏の開基。もと西郷さいごう寺の伽藍のうちであったが、天正一九年の火災により現在地に移るという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報