改訂新版 世界大百科事典 「武器輸出」の意味・わかりやすい解説
武器輸出 (ぶきゆしゅつ)
arms exports
以前は外国に武器を売却することを武器輸出と呼び,外国に無償で武器を供与する武器援助とは区別する傾向があったが,近年後者の比重がいちじるしく減少してきたことから,外国への有償・無償の武器移転を一括して武器輸出と呼ぶ慣行が一般的となった。また,輸出入を併せて武器貿易arms tradeという言葉も一般化しているが,この場合も統計上は無償移転を含めるのが普通である。第2次世界大戦前の武器輸出はもっぱら商業的利益の追求をめざす特定の業者によって行われることが多かった(これらの業者の暗躍ぶりはしばしば〈死の商人〉と呼ばれた)。
第2次大戦後
第2次大戦後は主として大国の政策に基づき,大国の政府の管理の下に武器輸出が行われるようになった。すなわち,戦後初期の冷戦開始時,アメリカは共産主義勢力の拡張を封じ込めようというねらいから西欧諸国,共産圏に近接する諸国および革命的反政府活動を抱えている諸国に武器を供給し,これに対抗してソ連も共産圏諸国および一部非共産主義国の革命勢力に武器を供給したが,これらの供給はその大部分が無償援助の形で行われ,供給される兵器も米ソの中古兵器がほとんどであった。
しかし,1950年代に入るとアメリカは西欧諸国および日本に対して有償のライセンス生産輸出方式を導入し,その後,先進国向けの武器輸出で無償のものはほとんどなくなった。他方,第三世界諸国向けの武器輸出では当初アメリカがほぼ独占的地位を占めていたが,1955年にソ連がチェコスロバキアを通じてエジプトに武器を供給したのを皮切りに,第三世界諸国に対する米ソの武器輸出競争が激しくなった。これ以後米ソは第三世界における自国の影響力を強め,相手の影響力を弱めるねらいから,同盟国に限らず多くの国に武器輸出を積極的に行うようになった。こうした第三世界向けの武器輸出も60年代以降はその大部分が有償に切り換えられるようになり,また70年代以降はきわめて高価な最新鋭兵器を大量に輸出する傾向が一般化した。また,1960年代半ばころからフランス,イギリスなど他の先進諸国も武器輸出に力を注ぐようになり,さらに70年代後半からはイスラエル,ブラジルなどの新興工業国も武器輸出努力を強化したから,世界とくに第三世界の武器市場では熾烈(しれつ)な売込み競争が展開されるにいたった。
1970~80年代の実態
ストックホルム国際平和研究所(SIPRI)は毎年出版する年鑑《SIPRI Yearbook》の中で,世界の主要兵器取引に関する資料を発表している。ここで主要兵器major weaponsというのは,(1)戦車・装甲車類,(2)ヘリコプターを含む軍用航空機,(3)ミサイル・ロケット類,(4)軍用艦船,の4種類の兵器である。SIPRIがこれら4種類の主要兵器に限定しているのは,それ以外の小型兵器small armsの移転を正確に把握することが実際には不可能だという判断に基づいている。
《SIPRI年鑑》の1984年版によれば,1979年から83年までの5年間における世界の主要兵器取引の総額は1975年の米ドル実質価値に換算して約730億ドルに達したが,その約65%は第三世界向けの輸出であった。5年間の主要兵器取引をおもな輸出国別で見れば(表),ソ連(37.2%)とアメリカ(35.5%)が合わせて全体の7割以上という圧倒的シェアを占め,次いでフランス(9.0%),イギリス(3.9%),イタリア(3.3%),西ドイツ(3.0%)の順となっている。他方,5年間における第三世界の主要兵器輸入を地域別に見ると(図2),中東(48.3%)が全体の半分近くを占め,次いで,アフリカ(20.2%),中南米(12.9%),極東(10.9%),南アジア(7.7%)の順となっている。
冷戦終結後の実態
冷戦の終結は武器輸出を大幅に減少させることになった。SIPRI年鑑の1998年版によれば,世界の主要兵器輸出額(かっこ内は第三世界向けの輸出額)は,1988年の363億ドル(217億ドル)から,97年252億ドル(183億ドル)と推移してきた(いずれも1990年の米ドル価値に換算)。
同じくSIPRI年鑑の98年版によると,1993年から97年までの5年間に全世界の主要兵器輸出総額は1132億ドルであったが,輸出サイドからみるとアメリカが531億ドル(46.9%)で最も大きく,以下,ロシア152億ドル(13.4%),イギリス94億ドル(8.3%),フランス78億ドル(6.9%),ドイツ72億ドル(6.4%)の順となっている(いずれも1990年の米ドル価値に換算)。冷戦終結後,ロシアの武器輸出が急減したのに反し,アメリカのシェアが急増していることがわかる。
他方,93~97年の輸入サイドからみると,サウジアラビアが98億ドル(8.7%)で最も大きく,以下,台湾82億ドル(7.2%),トルコ70億ドル(6.2%),エジプト67億ドル(5.9%),大韓民国53億ドル(4.7%)の順となっている。
要因
武器輸出を促す要因は多岐にわたり,輸出国によって一様ではないが,(1)武器の面で受入国を自国に依存させることにより受入国に対する政治的・軍事的影響力を強め,潜在的敵国の影響力を弱める,(2)武器の面で受入国政府を支えることにより,その政府が自国にとってつごうの悪い勢力により転覆されることを防ぐ,(3)武器輸出の振興により国際収支の改善と失業率の低下を図る,(4)近代的武器が多額の研究開発投資を要し,単位当りコストがますます高くつくようになっていることから,武器輸出によって単位当りコストの引下げを図る,(5)とくに受入国が資源保有国である場合には,武器輸出と引換えに資源輸入の確保を図る,などが指摘され得る。しかし,武器輸出の増大,とくに第三世界への武器輸出の増大は世界的規模での軍事化傾向に拍車をかけ,地域的な紛争をより複雑で悲惨なものとする原因となってきた。
国連への登録制度
91年秋の国連総会に国連加盟国に通常兵器の移転を国連に登録することを求める〈通常兵器移転登録制度〉の決議案が日本や西ヨーロッパ諸国により共同提案された。同決議案は91年12月9日に採択され,登録制度は92年1月1日から正式に発足した。しかし,この決議は法的拘束力を持たないため,すべての加盟国が登録を行うには至っておらず,97年4月現在,登録を行っているのは92ヵ国にすぎず,その内容も必ずしも網羅的であるとはいえない。
日本と武器輸出
日本では敗戦の結果,占領国軍によって徹底的な非軍事化が企図された。しかし,冷戦の激化は,主たる占領国であったアメリカの方針を一変させて日本に再軍備を求めるようになり,さらに朝鮮戦争の〈特需〉を経たことから軍需産業は息を吹き返した。その後,輸出貿易管理令に基づき武器は通産大臣の承認を得なければ輸出できないこととされたが,朝鮮戦争後も東南アジアや中東諸国向けに銃弾,砲弾などの小型武器の輸出は続行された。しだいに日本の軍需産業は主要兵器の生産能力を回復し,かつ日本がベトナム戦争の補給基地化したことに伴って活況を呈した。このような状況に対し,平和憲法のたてまえから武器輸出は行うべきではないという野党側の執拗(しつよう)な追及を受けた政府(佐藤栄作内閣)は1967年,(1)共産圏諸国,(2)国連決議により武器輸出が禁じられている国,(3)国際紛争の当事国またはそのおそれのある国に対しては武器輸出を承認しないという方針を打ち出した(武器輸出三原則)。さらに76年,三木武夫内閣は,(1)三原則対象地域以外の地域へも武器輸出は慎む,(2)武器製造関連設備の輸出も武器に準じて扱う,という三原則の強化方針を打ち出し,〈武器技術の輸出も三原則に照らして処理する〉という方針を提示した。このように,あらゆる地域への武器輸出を原則として行わないという方針が日本の基本政策として確立された観があった。
しかし,日米安全保障体制下に1954年には〈相互防衛援助協定Mutual Defense Assistance Agreement〉(略称MDA)が締結され,相互に装備,資材,役務その他の援助を供与しあうことを約束していたとするアメリカは,日本側がアメリカ側から武器技術の提供を受けるのみでアメリカ側に提供しないのは義務違反だとして,日本側からの技術提供を要求するようになった。このため83年中曾根康弘内閣は,(1)アメリカへの武器技術供与の道を開く,(2)この供与はMDAの枠組みによるもので,武器輸出三原則の枠外とする,(3)武器輸出三原則そのものは基本的に堅持することを基本として,日米間で交渉が行われた。この結果,(1)個々の技術供与を協議・決定する場として日米武器技術共同委員会を設ける,(2)個々の供与に際しては,日米間で実務取決めを結ぶことが合意された。このようにして,日本の武器輸出三原則には,風穴があけられることになった。
執筆者:木村 修三
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報