日本大百科全書(ニッポニカ) 「佐藤栄作内閣」の意味・わかりやすい解説
佐藤栄作内閣
さとうえいさくないかく
1964年(昭和39)11月から1972年7月までの7年8か月に及ぶ長期政権。高度成長の最盛期にスタートし、その終焉(しゅうえん)とともに任務を終えて退陣した。
[伊藤 悟]
第一次
(1964.11.9~1967.2.17 昭和39~42)
池田勇人(いけだはやと)首相の病気引退を受けて、佐藤栄作、河野一郎、藤山愛一郎の3人が後継の座をめぐって争ったが、財界の強力な支持を得た佐藤が1964年11月9日自民党両院議員総会で後継首班候補に選ばれ、同日国会で指名された。官房長官を除く全閣僚、党役員が留任し池田政治の継承を掲げ、前内閣の残した懸案の処理にあたった。1965年4月ILO第87号条約批准、5月農地報償法案採決、12月日韓基本条約批准(6月調印)をそれぞれ強行した。また1966年12月の建国記念の日制定、1968年10月の明治100年祭実施、さらにアメリカのベトナム政策支持など、力を背景としたタカ派的特徴をもつ。
[伊藤 悟]
第二次
(1967.2.17~1970.1.14 昭和42~45)
1966年末の「黒い霧」選挙を乗り切り、翌年2月第二次内閣発足。3月物価安定推進会議設置、7月公害対策基本法制定など、高度成長のひずみ解消に努める一方、小笠原(おがさわら)・沖縄返還交渉を進め、1968年6月小笠原返還を実現、1969年11月沖縄の「核抜き、本土並み」返還決定を実現した。しかし、経済政策は十分な成果が得られず、のちに問題を残した。
[伊藤 悟]
第三次
(1970.1.14~1972.7.7 昭和45~47)
1970年6月日米安保条約自動延長、1971年6月沖縄返還協定調印を果たしたが、公害の噴出とドル・ショック、米中接近という時代の変化に対応しきれず、1972年6月17日退陣表明を行い長期政権にピリオドを打った。
[伊藤 悟]
『細島泉著『保守支配の完成型としての佐藤内閣』(白鳥令編『保守体制 上』所収・1977・東洋経済新報社)』▽『千田恒著『佐藤内閣回想』(中公新書)』