デジタル大辞泉
「武田耕雲斎」の意味・読み・例文・類語
たけだ‐こううんさい〔‐カウウンサイ〕【武田耕雲斎】
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たけだ‐こううんさい【武田耕雲斎】
- 幕末尊攘派の水戸藩士。名は正生(まさお)、字(あざな)は伯道、通称修理、叙任して従五位下伊賀守。藩主徳川斉昭の幕譴解除運動や戊午の藩難に活動して免職。万延元年(一八六〇)再び登用されて藩執政。元治元年(一八六四)藤田小四郎(東湖の子)の筑波山挙兵を助けて天狗党の首領となり、同志八〇〇人を率いて西上、両毛・木曾路を経て京都の一橋慶喜に直訴しようとしたが、行軍の途中、大垣藩にはばまれ、加賀藩に降り、越前敦賀で斬首された。享和三~慶応元年(一八〇三‐六五)
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武田耕雲斎
たけだこううんさい
(1803―1865)
幕末の志士。水戸藩士跡部正続(あとべまさつぐ)の子。本家跡部正房の養子となり、跡部家の旧姓武田に復する。家禄(かろく)300石。名は正生(まさなり)、字(あざな)は伯道(はくどう)、通称彦九郎(ひこくろう)、修理(しゅり)、号如雲(じょうん)、致仕後耕雲斎。1864年(元治1)従(じゅ)五位下伊賀守(いがのかみ)に任ぜられる。1829年(文政12)徳川斉昭(なりあき)を水戸藩主に擁立、自らは参政となり、藤田東湖(ふじたとうこ)、戸田蓬軒(とだほうけん)らとともに改革政治に活躍した。1844年(弘化1)斉昭が幕府から致仕謹慎を命ぜられるとその雪冤(せつえん)運動に奔走して罰せられ、幽閉5年、許されて参政に復した。水戸藩内の天狗(てんぐ)派・諸生派の対立が激しくなり、藩主徳川慶篤(よしあつ)の目代として分家松平頼徳(よりのり)が鎮撫(ちんぶ)に赴く際耕雲斎も同行したが、諸生派と幕府の連合軍に拒否されて戦端を開き敗北した。1864年(元治1)尊攘(そんじょう)激派天狗党の藤田小四郎(ふじたこしろう)らの筑波(つくば)挙兵に行をともにした。同勢1000余名と上洛(じょうらく)の途中、越前国(えちぜんのくに)(福井県)新保(しんぼ)で加賀藩に降伏、敦賀(つるが)で刑死した。墓は敦賀市と水戸市貝川町妙雲寺にある。
[秋山高志]
『大内地山著『武田耕雲斎詳伝』全2巻(1936・協文社)』
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武田耕雲斎
没年:慶応1.2.4(1865.3.1)
生年:文化1(1804)
幕末の水戸藩尊攘派の首領。諱は正生,字は伯道,通称,彦九郎,伊賀,修理。耕雲斎と号す。跡部正続の長子,生家を出て跡部宗家を継ぐ。甲斐武田氏の末として姓を武田姓に変更。禄300石。文化14(1817)年家督を相続,文政12(1829)年,徳川斉昭水戸藩主擁立に奔走,天保11(1840)年に参政,弘化1(1844)年,斉昭の隠居謹慎に際し処罰解除を幕閣に嘆願,翌2年隠居謹慎。斉昭の藩政復帰により嘉永2(1849)年に処分解除,安政3(1856)年に執政。5年,斉昭の江戸城不時登城事件,藩内混乱のために執政を罷免。6年,戊午の密勅返納の幕命に反対し返納を主張する藩内諸生党や改革派鎮派と対立。桜田門外の変後の万延1(1860)年に復職,翌年の東禅寺英国公使館襲撃事件で罷免,翌年に復職,在職の間,尊攘派激派の鎮撫に努力。文久3(1863)年2月,徳川慶喜の要請により慶喜に同行して上京,4月に東下,元治1(1864)年5月の幕命により帰国,隠居,謹慎,7月,諸生党の実権掌握に反対し南上,藩内鎮撫の命を帯びた藩主目代の松平頼徳の軍を慕って水戸に戻り,目代の水戸入城を拒否した市川三左衛門らと交戦した。以後,目代の配下の榊原新左衛門と連携したが,同年10月,新左衛門が幕軍に投降したため,波山勢(天狗党)に合流し総大将となる。在京中の慶喜を頼って衷情を訴えるため,同勢を率い上京しようとしたが,途中で金沢藩に降伏,幕命により斬首。
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武田耕雲斎 (たけだこううんさい)
生没年:1804-65(文化1-慶応1)
幕末尊攘派の水戸藩士。名は正生(まさなり),通称は彦九郎,伊賀。耕雲斎は号。徳川斉昭の藩主擁立に尽力して以来,藩政改革派の重臣として活躍し,斉昭辞職後その雪冤に奔走し一時罷免されたが,のち許されて1856年(安政3)執政となる。64年(元治1)藤田小四郎らが筑波山に挙兵するや,筑波勢を助けてその首領となる(天狗党の乱)。戦略は功を奏せず,同志を率いて上京の途次,加賀藩に降伏,翌年幕府により敦賀で斬に処せられた。
執筆者:鈴木 暎一
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武田耕雲斎
たけだこううんさい
[生]享和3(1803).水戸
[没]元治2(1865).2.4. 敦賀
幕末の尊王派志士。水戸藩士跡部正続の子。通称,彦九郎,正生と名のる。のち甲斐武田の流れである跡部本家を継ぎ,武田に復した。文政期に水戸斉昭を藩主に擁立し同藩家老となったが,安政の大獄に際して失脚。万延1 (1860) 年密勅返納に際して再び家老となり,幕政に参与したが,文久1 (61) 年東禅寺事件の責めを負って免職。翌年政務参与に復職した。元治1 (64) 年3月水戸藩 (天狗党) 藤田小四郎らが筑波山で攘夷挙兵するに及んでその首領に擬せられ,上京の途中,同年 12月加賀藩の手で捕えられ,斬刑に処せられた。 (→天狗党の乱 )
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武田耕雲斎
たけだこううんさい
1804~65.2.4
幕末期の水戸藩の執政。水戸藩士跡部正続(まさつぐ)の長男。のち本姓武田に復す。名は正生(まさなり),通称彦九郎・修理。致仕後耕雲斎と号した。藩主に徳川斉昭(なりあき)を擁立以来,改革派の重臣として活動。斉昭の謹慎・復職に応じて致仕・昇進したが,1856年(安政3)執政となる。62年(文久2)に一橋慶喜(よしのぶ)の上洛に随従。64年(元治元)1月伊賀守。藤田小四郎ら天狗党の筑波山挙兵により5月に執政を罷免された。市川三左衛門ら門閥派政権に対抗して10月に筑波勢と合流,天狗党を再編してその首領となり,京都に向けて西上の途についた。途中諸藩兵や大雪・寒気と戦う難行に力つき,金沢藩に降伏し,65年(慶応元)2月4日,敦賀(つるが)で斬刑に処せられた。
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武田耕雲斎【たけだこううんさい】
幕末の常陸(ひたち)水戸藩士。尊王攘夷派。通称彦九郎。藩主徳川斉昭を擁立,藩政改革を推進。1864年藤田小四郎らが筑波(つくば)山に挙兵した天狗(てんぐ)党の乱では,その後藤田らと合流して天狗党首領となったが戦略効を奏さず,京都に向かう途中加賀(かが)金沢藩に投降。同志353名とともに越前(えちぜん)敦賀で斬首された。
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武田耕雲斎 たけだ-こううんさい
1803-1865 江戸時代後期の武士。
享和3年生まれ。常陸(ひたち)水戸藩士。徳川斉昭(なりあき)の藩主擁立につくし,改革派の中心人物として藩政に参加。元治(げんじ)元年藤田小四郎らの天狗(てんぐ)党の首領におされ,同志をひきいて京都にむかう。途中越前(えちぜん)(福井県)で加賀金沢藩に降伏し,元治2年2月4日敦賀(つるが)で処刑された。63歳。本姓は跡部。名は正生。字(あざな)は伯道。通称は彦九郎。別号に如雲。
【格言など】咲く梅の花ははかなく散るとても馨(かを)りは君が袖にうつらん(辞世)
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武田耕雲斎
たけだこううんさい
1804〜65
幕末の尊攘派志士
水戸藩士。徳川斉昭 (なりあき) に信任され,藩の家老となる。1864年の藤田小四郎の筑波山挙兵(天狗党の乱)を助け,同志を率いて京都に向かう途中,加賀藩に降伏。'65年敦賀で斬首された。
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世界大百科事典(旧版)内の武田耕雲斎の言及
【天狗党の乱】より
…幕府が諸藩に追討を命ずると,諸生党の天狗党攻撃も激化し,しだいに水戸藩内の党争の色彩をつよめた。窮地に立った天狗党は,在洛中の一橋慶喜を頼り[武田耕雲斎]を主将として大挙西上するが,途中で加賀藩に降伏して拘禁された。翌年2月の武田,藤田,田丸以下350人を超える死刑をはじめとし,大量の犠牲者を出した。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」