院武者所ともいう。院御所の警固,院御幸の供奉などを任務とした武者。985年(寛和1)円融院が武者所10人に弓箭を帯せしめたことをはじめとする。院庁始とともに院蔵人所,院御随身所,院武者所の設置が行われる例で,その員数は10余人から30人ほどであった。天皇在位のときの滝口をあてることが多かった。令制の本官をもたぬ者も多く,1093年(寛治7)白河上皇の春日社御幸に供奉した武者所のばあいは,30人中,有官者は9人のみであった。なお,無官の武者所は労効(ろうこう)によって右馬允に任ずる例であった。
執筆者:棚橋 光男 その後,建武新政に際して武者所が復活し,京都警衛を任務としたと推測されるが,詳細は不明。《建武年間記》によれば6番で構成され,総勢63人で,新田義顕以下の新田一族が多く頭人の地位を占めた。
執筆者:編集部
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
(1)上皇の御所を警護する武士の詰所(つめしょ)、またその武士。985年(寛和1)以降設置され、単に「武者」あるいは「所」ともよばれた。(2)建武(けんむ)新政政府によって設置され、皇居の警衛を任とする禁衛軍を統轄し、京都の治安保持にあたった機関。1333年(元弘3・正慶2)に設置され、64人の武士が六番(組)に分かたれ、輪番で任務についた。各番の頭人(とうにん)は、一番=新田義顕(にったよしあき)、二番=同義貞(よしさだ)、三番=同行義(ゆきよし)、五番=同義治(よしはる)と、新田一族が六番のうち四番を占め、このほか四番は長井広秀(ひろひで)、六番は武田信貞(のぶさだ)が頭人に任ぜられた。禁門の警備や市中の治安維持にあたったほか、風俗の取締りや土地問題などにも関与したらしい。
[新田英治]
平安中期以降,院などにおかれ,御所や上皇自身の警護にあたった武者,およびその詰所。985年(寛和元)円融院に10人おかれたのが初見。天皇に近侍する滝口(たきぐち)を中心にのち増員され,北面とともに院の武力を担った。建武政権にも設けられ,詳細は不明だが,御所の警護のほか洛中警衛にあたったと推測される。足利尊氏離反後の1336年(建武3・延元元)に65人が6番に編成された交名(きょうみょう)が残る。継続して,南朝にも設置された痕跡がある。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
… 院司の構成にはかなり変遷があるが,《西宮記》《拾芥抄》《名目抄》その他の記録により,平安・鎌倉時代の院司を概括すると,二十数種に及ぶ。それを性格・機能のうえから分類すると,(1)院中の諸事を統轄処理するもの=別当・判官代・主典代,(2)上皇の側近に侍し身辺の雑事に奉仕するもの=殿上人・蔵人・非蔵人,(3)各種の職務を分掌するもの=別納(べちのう)所・主殿(とのも)所・掃部(かもん)所・薬殿・仕所・召次所・御服所・細工所・御厨子(みずし)所・進物所・御厩・文殿(ふどの)など,(4)上皇の身辺および御所の警固に当たるもの=御随身所・武者所・北面・西面などに整理できる。まず(1)は院司の中核で,(1),もしくは(1)(2)に限って院司と称した例も多い。…
※「武者所」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加
9/20 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新