日本大百科全書(ニッポニカ) 「フランス美術」の意味・わかりやすい解説
フランス美術
ふらんすびじゅつ
フランスは、旧石器時代・新石器時代の美術遺産を数多くもっている。以後、今日に至るまで、他のヨーロッパ諸国に比しても、フランスは質的にも量的にも、もっとも優れた造形活動の中心の一つであり続けた。いわゆるフランコ・カンタブリア美術の洞窟(どうくつ)壁画などは、フランスという国土が、その豊かさにおいて、旧石器時代以来、芸術的生産に適した風土であったことを推定させ、これもフランスの誇る美術遺産であるが、しかし、狭義のフランス美術とは関係がない。民族的、国家的特質を備えた美術という観点からすれば、厳密には987年のカペー朝の成立以後、さらにその前史としてのガロ・ロマン時代(1~5世紀)およびフランク王国時代(5世紀末~10世紀)以降が対象となる。
ガロ・ロマン時代は、ケルト人の造形とローマ帝国のそれとの共存と混合の時代であり、その両者の要素はともに、その後のフランス美術になんらかの造形的特性を与えたことは否定できない。続くフランク王国のメロビング朝美術、カロリング朝美術は、西欧初期中世のキリスト教美術のもっとも重要な部分であり、前者はゲルマン的、抽象的な傾向を、後者はその古代志向によって古典的、自然主義的傾向を示し、それぞれに以後のフランス美術の形成に多大な役割を担った。
[中山公男]
10~12世紀、ロマネスク美術
長い混乱と空白のあと安定を取りもどしたこの時代は、以前をはるかにしのぐ活力で修道院や教会堂建築を生み出す。「各地で教協会が白い衣をまとい始めた」と形容されるのは、この時代の建築の旺盛(おうせい)さと木造建築から石造への移行を物語っている。多身廊(たしんろう)、袖廊(しゅうろう)の付加、後陣部の多様化など、建築の構造もバシリカ形式の単純さからより複雑な構造へと転化する。そして、この建築を核として、壁画、彫刻、写本、祭具類など貴金属工芸といった諸芸術の開花をみることになる。この時代を支えた文化的活動は、ローマやサンティアゴ・デ・コンポステラなどに至る大巡礼によるものであったが、スペインへの経路上にある教会や修道院建築では、当然スペインの影響の強い壁画がみられる。あるいはまた、布教と図像伝達の媒体である各種典礼書の手写本彩飾画では、早くから修道院にアトリエをもっていたイングランド諸島の様式が、この地に近い地方に流布されるといった状況である。
11世紀後半ともなると、ロマネスク美術は成熟段階へと入るが、やがてゴシック期にこの時代の文明のいわば主導者として現れるパリを中心とする北フランスの文化は、フランス・ロマネスクの終章に発するものといってよい。
[中山公男]
12世紀後半~16世紀初頭、ゴシック美術
前期ゴシック
中世キリスト教文化の最成熟期であるゴシック期にこそ、フランスの独自性と主導的位置が示される。北フランスの地において継続的になされた教会堂建築のきわめて合理主義的な発展は、とりわけ、高大な内部空間をもつ石造建築の屋根の架構方法の解決をもたらす。壁間にアーチと並べて架ける半円筒穹窿(きゅうりゅう)(筒形ボールト)から、半円筒を直角に交差させる交差穹窿(グロイン・ボールト)へ、さらにこれに尖頭(せんとう)アーチを肋骨(ろっこつ)として併用し、荷重をむだなく隅柱に流す肋骨穹窿(リブ・ボールト)が生まれる。こうして、もはや重厚な壁体によって屋根を支える必要がなくなり、またその屋根がしばしば建築途中で崩落事故をおこすような不安定さも免れるようになった。また柱を複合柱とし、さらに飛梁(とびばり)を用いて強化しさえすれば、信仰心、あるいは都市間の競争心にふさわしい、高大な建築が可能になる。
これらの新技術を駆使した最初の例が、サン・ドニ修道院聖堂(1144年献堂)の再建である。パリのノートル・ダム大聖堂は初期ゴシックの典型であり、13世紀のシャルトル大聖堂、ランス大聖堂、アミアン大聖堂はもっとも完成されたゴシックの古典期の壮麗な例である。
これらの大聖堂の明快な構造を損なうことなく、聖堂の内外には「石の百科事典」としての装飾彫刻がほどこされる。そこには、ロマネスクの彫刻の示していた黙示録的雰囲気、東方の影響の幻想性、戒律の厳しさといった印象は消え、優しさ、自然らしさ、人間らしさがみられる。象徴主義の図像の体系化とともに、古典的なヒューマニズムが復活しているのである。
一方、ロマネスクの聖堂を支配した壁画にかわって、ステンドグラスが登場する。重厚な壁体が消え、柱構造の内部空間が成立してその柱間が窓となったとき、新しく、しかもこの高大な宗教空間にもっともふさわしい芸術が成立するのである。フランス人たちが古くから親しんできたコールド・クロワゾンネcold cloisonnéの技法や感性の延長線上にある芸術であるが、その色彩と透過する光による神秘性が、ゴシックの大聖堂の美学を完成させる。コールド・クロワゾンネとは、焼成法を用いる七宝焼(クロワゾンネ)に対して、準貴石やガラス玉などを金属板に嵌入(かんにゅう)(はめ込み)して同様な効果を出す技法。これは東方の技法の影響下にヨーロッパ侵入族たちが愛用した装飾技法で、中世美術の色彩性、抽象性の先駆となっている。こうした北フランスにおける成果が、フランス各地へ、さらにフランス以外の国々にも伝えられる。ゴシック大聖堂とそれに付随する諸芸術は、どの地においても中世文化の頂点を形成したが、その根底にフランスでの成果があったことは疑えない。
[中山公男]
後期ゴシック
14世紀以降の後期ゴシック期にも多くの聖堂建築がなされ、洗練と装飾化へと向かう。穹窿の肋骨や窓の狭間飾り(トレーサリー)は、曲線と反曲線の複雑な火焔(かえん)状の文様となり、文字どおり「フランボワイヤン(燃えあがる)」様式とさえよばれた。しかし、こうした装飾性の自律的な展開は装飾と建築の遊離を生む。同じように、彫刻も建築から遊離して丸彫り彫刻へと向かい、ステンドグラスは写実的効果と装飾性を求めて色彩を複雑化させ、細部の描写にこだわりだして本来の強い効果と神秘性を失う。大聖堂の時代は終わり、世俗的建築の時代へと移行する。
[中山公男]
15~16世紀、ルネサンスとマニエリスム
後期ゴシックの完結からルネサンス的近代へ
中世文化を導いたフランスの栄光が、かえってルネサンスの新しい息吹を感じとることを遅らせたといえるかもしれない。しかもフランスは、少なくとも15世紀の前半まで百年戦争による空白と停滞を強いられ、宮廷も各地を転々とするありさまであった。それにもかかわらず、フランドル、イタリアの影響のなかで、後期ゴシックからルネッサンス的近代へと自己の世界を完結させようとするフランス独自の努力の存在を無視することはできない。
パリは見捨てられて久しかったが、バランシェンヌ、ロアールの谷、プロバンスなどいくつかの芸術の中心地があった。とくに教皇庁が置かれていたアビニョンとルネ・ダンジュー王の宮廷の置かれたエクサン・プロバンスの2都市をもつプロバンス地方は、何人もの優れた芸術家と作品を残している。
まず、このプロバンスでの芸術活動の高さをみせるのが、「エクスの受胎告知の画家」と名づけられ、この『聖告』1点のみが確実視されている画家とその作品である。本来作品はエクスのサン・ソーブール聖堂のために描かれたが、三翼祭壇画の中央パネルが、現在エクスのサント・マドレーヌ聖堂に保存されている。緻密(ちみつ)な質感描写、フランドル風の遠近法などで、後期ゴシックの完結を物語る。
アンゲラン・カルトンEnguerrand Quarton(1415ごろ―1466以後)はエクス、ついでアビニョンで活躍したが、ルーブル美術館の『アビニョンのピエタ』、アビニョンの施療院に残る『聖母の戴冠』は、圧倒的な迫力、現実と超越界を結び付ける内省の深さ、明晰(めいせき)さと劇的な世界を結び付けるイメージの高まりなどの点で、フランスがこの時期に到達したゴシック的自己完結と、フランス独自のルネサンス的近代への接近の双方をみせてくれる。やはりエクスで活躍したフロマンNicolas Froment(1430ごろ―1483/1484)の『燃える柴(しば)』についても同じことがいえるだろう。
ロアール峡谷の宮廷で描いた傑出した画才フーケは、フランス・ゴシック、フランドルとイタリアの影響のなかから、真にルネサンス的で、またフランス的でもある新しい感覚を実現している。残された作品は彼の場合もきわめて少ないが、『シャルル7世の肖像』『ジュブネル・デ・ジュルサン』(いずれもルーブル美術館)、『ムーランの祭壇画』(アントウェルペン王室美術館)は、いずれも人間観察の鋭さ、形態や色彩の明晰さ、抽象化といった点で独自な近代性を示している。
このフーケの世界を受け継ぐ画家たち、たとえば「ムーランの画家」などにも、世俗性と繊細さ、明快な視野と内省的な観察の調和するフランス的な感性の近代化をみることができる。
[中山公男]
第一次フォンテンブロー派とマニエリスム
しかし、興味深いことであるが、こうしたフランスの芸術家たちの努力を無視するかのように、シャルル8世、ルイ12世、フランソア1世など当時のフランス王たちは、イタリアに関心をもち続けた。そしてその征服の野望には、イタリアの新しい文化とその息吹への抑えがたい関心が内在していたと思われる。フランソア1世が最晩年のレオナルド・ダ・ビンチを厚遇したことはよく知られている。フランソア1世は、イタリア・ルネサンスのいわば再現を意図して、フォンテンブロー城の改築・増築のためイタリア人の建築家や画家を次々に招いている。それだけではなく、城館の付属建築の内部に、タピスリー製作所、ブロンズ鋳造所、家具製作所、印刷所まで設けた。知的・芸術的活動をいとなむルネサンス君主としての栄光を夢みていたのであろう。
ロッソ・フィオレンティーノ、プリマティッチオFrancesco Primaticcio(1505―1570)、ニッコロ・デル・アッバーテNiccolo dell'Abbate(1509ごろ―1571)のほかチェッリーニ、ビニョーラなど数多くの芸術家がやってくる。いうまでもなく、彼らはすでにイタリアで名をなしていたマニエリスムの画家・工芸家・建築家たちである。古典神話に幻想性、官能性が加味され、暗喩(あんゆ)、寓意(ぐうい)、象徴などの知的遊戯を好む彼らの芸術に、宮廷の優雅さ、洗練、あるいは逸楽性が加わり、イタリアのマニエリスム以上に特異な世界を生み出したといってよいであろう。
しかし本来のフランスのもっていた特質、あるいはフランソア1世たちのもっていたルネサンス的な雰囲気がすべて失われたわけではない。親子二代にわたってフォンテンブローの王たちに仕えたジャンとフランソアのクルーエ父子の肖像画の知的なまなざし、心理学的な観察などは、フーケの肖像にもつながるものであり、フランスのルネサンスのあり方を示している。
[中山公男]
17世紀
第二次フォンテンブロー派
アンリ4世の即位と平和の回復は、17世紀初頭のフランスに若手の活力を取りもどさせた。フォンテンブロー城、ルーブル宮殿の増築・改築も始まり、パリの都市改造にも手がつけられる。今日残るボージュ広場は、当時の近代的な都市計画の名残(なごり)である。アンリ4世のもとで活動したいわゆる第二次フォンテンブロー派は、フランソア1世当時の第一次フォンテンブロー派と異なってフランス人の芸術家たちであった。しかし彼らはいずれも17世紀初頭に生を終え、アンリ4世自身も在位わずか11年の1610年、非業の最期を遂げることになる。したがって、17世紀最初の四半世紀におけるフランスの芸術活動を特徴づけるのは、フランドルの巨匠ルーベンスによる『マリ・ド・メディシスの生涯』の大連作ということになる。このころからルイ14世時代までの間に、少しずつ情勢は変化する。
[中山公男]
イタリア・バロックの影響とルーブル東翼正面の設計
イタリアで修業して帰国した画家たち、ビニョンClaude Vignon(1593―1670)、ブーエ、ブランシャールJacques Blanchard(1600―1638)たちは、いうまでもなくイタリア・バロック絵画の動的な構図、劇的な情緒性を特色としたが、フランス風の明晰を失うことなく、帰国後はいっそうフランス的な特質を明らかにしてゆく。
中世の栄光が消え去ったあと、フランスはフランドルとイタリアという二つの文化圏の間に揺れながら、かろうじて自己を保とうと努力してきた。しかしルーブル宮殿東翼正面部の築造にあたって、象徴的な事件がおこった。最初、ルイ14世はこの建築の設計を、すでに令名高いイタリアの大建築家ベルニーニに委ねるべく、彼をフランスに招く。ベルニーニは王者の如き行列でパリを訪れ厚遇を受ける。しかし彼の提出した華麗なプランは、やがて不採用となる。予算の超過、フランスの建築家たちの反発など、さまざまな理由が推測されるが、しだいに国力を充実させ、中央集権国家としての威信を高めつつあるフランスのナショナリズムの発揮と考えてよい事件であろう。建築は、ルボー、ペローClaude Perrault(1613―1688)、ルブランの委員会に委ねられた。この事件以前にルーブルの建築に携わっていたマンサールもそうだったが、東翼正面は、バロック的装飾性を排した古典主義的な建築として完成された。
[中山公男]
ルイ14世様式の成立とベルサイユ宮殿
この前後からフランス美術においては、イタリア・バロックの原理をある部分で継承してはいても、本質的に古典主義的なルイ14世様式が急速度で成立する。ベルサイユ宮殿はルボー、ルブラン、ル・ノートルたちによって建築される。それ以降も、イタリアニズムの排除や王室の威信の表明としての古典主義的理想は、芸術家たち自身というより、コルベールなど王の側近たちの意図的な政策として推進されたようである。
絵画においても類似の状況がみられる。ブーエとその弟子たちも、イタリア風のバロックからより明快な装飾的画風にしだいに移行したし、フランドルからきたシャンペーニュは、ポール・ロアイヤル修道院のジャンセニスムの禁欲性、静かな精神性に満ちた抑制された画境に入ってゆく。カラバッジョ風の光線、風俗画的主題から入ったジョルジュ・ド・ラ・トゥールは、唯一の光源のなかでの静かな動き、極度に精神化された宗教的雰囲気、ほとんど抽象化された人体で、宗教的というべき空間をつくりだす。
ロレーヌの地方的環境で活動したラ・トゥールに対して、いわゆる農民の画家ル・ナン兄弟(ルイ、アントアーヌ、マチュー)たちの農民画も、静かな抑制された光と影のなかに人間個々の存在の重さを提示している。どのような目的なり顧客を想定してこの種の農民画が描かれたか疑問が残るが、ここには、人間存在を極度に偉大化するバロック的感情と、そうした存在を前にして真摯(しんし)な目を見張るフランス古典主義の姿勢がある。実際、古典主義の昂揚(こうよう)が当初の政治的なナショナリズムを越えて、17世紀フランスの美術を一つの頂点にまで高めたことは疑えない。
[中山公男]
プサン、ロランとアカデミズムの成立
コルベールたちによってつくられたナショナリズムの発揚としてのアカデミズムの中核にも、プサンとクロード・ロラン(クロード・ジュレ)という傑出した画家たちが出ている。ロランとプサンはいずれもイタリアに留学し、生涯の大半をイタリアで過ごしている。いうまでもなく、彼らが学んだのは同時代のバロックではなく、純正なイタリア・ルネサンス、あるいはその源泉でもあった古代の栄光であって、その傑出した才能と多くの制作は、フランス・アカデミーの礎(いしずえ)をつくるに十分であった。プサンは神話画、歴史画、宗教画を数多く制作し、画面の構成、配置の方法的な秩序を実現した。一方、風景画、とくに海景、港湾画を好んだロランは、古典の物語と建築的構成と自然の光との総合に壮大な詩をみいだした。
この2人の画家の周辺に数多くの画家たちの活動があったことはいうまでもない。それらは、ゴシックとマニエリスムの間に揺さぶられ、真の意味でのルネサンスの洗礼を十分に受けることのなかったフランス美術が、遅まきながら、それを全身をもって体験した時期がこの古典主義時代だったといえるのではないか。この時期、きわめて明晰で幾何学的な秩序をもった静物画を描いたボージャンLubin Baugin(1610―1663)という画家が目をひくが、まさに彼が知ろうとしているのは、自然と理想と合体した世界、空間の詩というルネサンス的な体験であったようにも思える。
[中山公男]
18世紀
感覚主義の発生
どの国の場合でも社会史と美術史は当然のこととして相即しているが、フランスの場合、社会的変化と美的傾向との双方がつねに変転し続け、互いに他方を刺戟(しげき)しあっているため、その変化は著しい。前世紀末、太陽王ルイ14世の治世の末期、反動が生まれ始める。プサン主義(線と形態的秩序を重視する古典主義)に対して、ルーベンスト主義(色彩感と自由な形態の運動性を好む傾向、感覚主義の潮流)が生まれる。ベルサイユ風の大げさな儀式的生活に対して、簡素な、といっても魅惑と繊細さには事欠かない生活、プライベートな生活様式が好まれる。武人たちの勇ましい時代は終わり、女性優位(もちろん当時としては)のサロン風の社交生活が好まれ、軽やかさ、小ささ、かわいらしさ、個人性、つまり「自由」が求められていたのである。
この新しい欲求が耐ええないほどふくらみだしたとき、ルイ14世の死、オルレアン公フィリップの摂政(せっしょう)時代の始まりが布告される。1716年1月、ルイ14世の没後4か月という時点で、オペラ座において庶民のための舞踏会が開催され、長らく禁止されていたイタリア喜劇も解禁となる。
[中山公男]
ロココとポンパドゥール様式
新しい時代への変化は、日常生活そのものに現れ、ついで日常生活のための空間の装飾、衣装、アクセサリー、家具、工芸品に及んでゆく。装飾の非対称化、白い鏡板(かがみいた)の多用、繊細さや幻想性の強調が、軽やかで夢想的な女性的な空間を生み出す。ボフランの「スービーズ公妃の間」(1737)などがその例である。ガブリエルAnge-Jacques Gabriel(1698―1782)がベルサイユに建てた「プチ・トリアノン宮」(1768)の外装は、すでに古典主義の流行で、いっそう簡素なコリント様式になっている。
家具が貴族や富裕な市民だけではなく、中産階級や農家においても多用され、家具製作者の名前も残り始める。陶器の製作も盛んで、ドイツのマイセン磁器の開発に促されて王立の製陶工場セーブル製作所が設立された。タピスリーも各地でつくられ、画家やデザイナーたちは、これらの装飾工芸に魅惑的な主題、図像をふんだんに供給する。
「ロココ」の名称は、「ロカイユ装飾」に発する蔑称(べっしょう)から一般的な呼称となったもので、厳密にいえば摂政時代からルイ15世時代の初期までのものをさす。その後は、王の寵(ちょう)を受けて弟の建築総監マリニー侯爵とともに美術、文化をリードしたポンパドゥール夫人の名をとって「ポンパドゥール様式」の名が用いられる。さらに18世紀なかば、ポンペイの遺跡の発見によってブームとなった古代趣味、新しい古典主義へと移行してゆく。本質的にロココ的な趣味の時代が、大革命前後からの古典主義(新古典主義ともよばれる)まで持続する。
[中山公男]
ワトーとブーシェ
こうした趣味性、単なる日常的な美学に、人間の本性である「自由」を託して表現した一人の画家アントアーヌ・ワトーの存在は、この世紀のあり方を象徴している。詩的な夢想、舞台の劇や踊り、野外の宴などに託して、人生のはかなさ、たえまのない心の動き、そして最終的に何ものにもとらわれることのない「自由」を描いたワトーは、前世紀の偉大さや高貴さにひかれた人間とは対照的な世界を示している。それらは大革命前後の道徳的な風潮や英雄主義によって非難される性質のものではあったが、本当の自由はむしろこの「自由放縦(リベルティナージュ)」に近い感覚的自由の確立によって得られたものといってよい。ワトーの画風は、少なくとも最初は、アカデミーによって歓迎され、「雅(みやび)な宴(フェート・ガラント)の絵」と名づけられる。こうしてワトーの周辺に多くの雅宴画家が生まれる。
摂政時代末からルイ15世時代まで、ゴブラン製作所長、王の画家、アカデミー会長として装飾芸術のあらゆる分野で活躍し、生涯に1000点の油彩と1万点のデッサンを残したブーシェも、青年期、ワトーの作品をエッチングにした180点の版画を残している。古典主義の流行に乗って、ロココ的夢想や官能的な題材に明るさや格調を与えた彼の世界は、フランス美術が近代絵画に与えた世俗的、大衆的要素の源泉といってよい。
[中山公男]
シャルダンとフラゴナール
雅宴画の夢想の一方に、いうまでもなく、人、物、自然に対する着実な接近が、市民階級の成長とともにしだいに画家たちの視野に現れる。オランダの風景画・静物画なども影響を与えたことはいうまでもない。そのもっとも優れた画家として、シャルダンの名があげられる。『赤えい』でアカデミーに認められたシャルダンは、最初は台所の静物、狩の獲物、寓意(ぐうい)的静物で日常の視野のなかの物の存在に迫り、やがて『カードの城』『食前の祈り』などパリの中産階級の日常の風俗に迫ってゆく。晩年には自画像やシャルダン夫人像で庶民階級の存在を確定する。アカデミーに終生属しながら、かならずしも厚遇されたわけではない中産階級の自己認識の卓抜さは、ほかの静物画、風俗画などとともに19世紀印象派以降にとっての指標の一つとなっている。
もっと軽やかに、「たった1回のポーズ、金貨1ルイ」、1時間たらずで仕上げた「気まぐれの肖像画」を多く残したプロバンス生まれのフラゴナールは、この世紀最後のロココ的画家であろう。ワトーの夢想性、気まぐれと、庶民の感覚が融合したこの画家は、ロマン主義的な風景画家の先駆でもある。
[中山公男]
ロベールとウードン
このフラゴナールの留学時代の友人であり、王の庭園の画家でもあったユベール・ロベールHubert Robert(1733―1808)も、先ロマン主義的な風景画や廃墟(はいきょ)画を描いている。
彫刻家もまたバロック的あるいは古典主義的人間観を脱却し、機敏で容赦のない目で性格描写、心理描写を行う。ウードンたちがその例である。
[中山公男]
古代趣味とロココへの反動
ロココ趣味の一部でしかなかった古代趣味は、ダビッドとその周辺の画家たちにとっては、大革命前後における社会的倫理、精神的規範となる。ロココへの反動が開始するとはいっても、少なくともダビッドの英雄主義はきわめてセンチメンタルな部分をもち、他方で、革命の血なまぐさい現実の証言としての役割をも含んでいる。
[中山公男]
19世紀
ダビッドの新古典主義とロマン主義の萌芽
大革命時からナポレオン時代にかけて、ダビッドを中心とする古典主義的絵画の全盛期が持続する。とはいっても、ダビッドの大作『ナポレオンの戴冠』(1801)が示すように、禁欲的な新古典主義から、豪奢(ごうしゃ)で祝祭的な画面への変質を否定することはできない。他方では、この新時代の新しい階級の市民たちや軍人たちを描く肖像が、現実主義的な人間観察へと画家たちの視線を導き始めたことも事実である。ダビッドの画稿料の高さのために、彼の弟子たち、グロ、アンヌ・ルイ・ジロデ(ジロデ・トリオゾン)、フランソア・ジェラールBaron François-Pascal-Simon Gérard(1770―1837)たちがナポレオンやその軍隊の戦いなどを描くことが多くなるが、それらの作品は、戦闘の情景の劇的な性格に促されるし、外地での経験は異国情緒趣味を高める。すでに18世紀、東方の刺戟はさまざまな形でフランス文化に流入していたが、従軍の経験はその傾向に拍車をかける。こうして、いつのまにか古典主義派の画家たちにもロマン主義的な雰囲気が浸透する。革命によって個人が解放され、それぞれの画家たちは自我の拡大を求める。宮廷と教会の注文を失った画家たちは、自らの世界を提示し主張しなければならない。
[中山公男]
アングルとドラクロワ
こうしてダビッドの後を受けて官展派、新古典主義の領袖(りょうしゅう)となったアングルと、いわば在野のドラクロワによって率いられたロマン派の長い対立構図ができあがる。
しかし実際には、このアングルたちの新しい古典派も、様式や技法ではアカデミックであったが、主題や情調の点では甘美なロマン主義的な要素を含んでいた。また、この古典派の巨匠アングルは、多くの肖像画を残したが、そこには新興階級をとらえる鋭い観察、緻密(ちみつ)な描写力も示されている。社会、自然、人間は、ナポレオン以後の市民生活でより重要な要素となる。日常性、実証性、そして市民としての社会的自覚が、新しい視野を開くことになる。
[中山公男]
風景画の新しい展開
フォンテンブローの森、バルビゾンの村に集って描いたコロー、ミレー、ドービニーたちが風景画をもっぱら描くようになったのは、18世紀に開始した風景画の再度の発展である。コローは、イタリアで学んだ明るく格調の高い風景から、しだいにセーヌの谷などの柔らかな風景に古典的な詩想を混じえて描いた作品や、やはり詩情にあふれる婦人肖像画を描く。ほとんど郷里に帰ることなく、それでも農民生活のあらゆる局面、労働や家族の生活、四季折々の景色を描いたミレーは、革命によっても十分に改善されぬままの貧しい農民階級の自己主張をしていたと思われる。
[中山公男]
ドーミエとクールベ
同様に、ドーミエは政治的な戯画を生活の資として描きながら、他方で都市の貧しい労働者たちの生活を、その暗い詩的な雰囲気で伝える。
クールベは、もっと大胆に伝統的な主題を否定し、目に見える現実生活を描くことを宣言する。彼はこの主張を貫くため、1855年の万国博覧会の際、それに落選した作品などを集めた個展を開いて「ル・レアリスト」と名のっている。単に主題の点で従来のアカデミズムの伝統に挑戦しただけではなく、パレットナイフを使った強い塗りなどの技法で、伝統的な画法にも挑戦している。
[中山公男]
市民生活の確立と意識の変化
実際、19世紀なかば過ぎの第二帝政期から、普仏戦争とパリ・コミューンの痛みから比較的早く回復しえた後まで、まさに市民生活の確立が視野を変える。オスマン男爵のもとに行われたパリの都市改造、交通網の整備、汽車や汽船の登場、橋梁(きょうりょう)や港湾の整備、鉄骨の使用、産業の近代化は、具体的な視野を変えただけでなく、意識のなかのイメージ、あるいは時間の感覚を変える。
クールベの宣言を待つまでもなく、アカデミズムの支える世界はすでに崩壊し始めていたのである。ただ、アカデミズム自身はもちろんのこと、一般社会もその表面上の変化さえ信じていなかったことが、新しく登場してきたマネや印象派(印象主義)の画家たちがかなり長期間にわたって社会に受け入れられなかった悲劇を生む。1863年の落選展出品のマネの『草上の昼食』や1865年のサロン出品の『オランピア』がスキャンダルになったことが、この新旧の認識のギャップを示している。
[中山公男]
印象派の登場と日常的な視覚の確立
このマネの認識を先蹤(せんしょう)として集まった画家たちが、その最初の成果を問うた1874年の第1回印象派展も、ごく一部の理解者や共鳴者を除けば、スキャンダルや無視の対象となったことも、変化を実現することの困難さを物語っている。
印象派、モネ、ドガ、ピサロ、ルノアール、バジールJean-Frédéric Bazille(1841―1870)、シスレー、セザンヌたちは、それぞれ画風も気質も方向も異なっているが、まず、ボードレールのいう「現代生活」を描いている点で共通の基盤をもっている。水辺の風景を描くモネ、競馬、取引所、劇場、ブティック、洗濯女など、第二帝政期、第三共和政時代の社会生活を題材とし続けたドガ、ミレーを尊敬し、社会主義的心情の持ち主であり、農村風景、のちには都市風景を描いたピサロ、何よりも人々の集う行楽地の風景、ダンス場、レストラン、そして少女たちや花を愛したルノアール、やはり水辺の風景を愛し不遇のなかに生を終えたシスレーなど、どの画家たちの作品も、当時のパリを、農村を、行楽地を題材としている。
そして、そうした「現代生活」を描くにあたって、日常の視野のもっている明るさ、光の変化を描くため、戸外制作を行い、パレット上で絵の具を混ぜ合わせるのではなく、いくつかの筆触を並べて原色の斑点(はんてん)を置き、その視覚内での混合で光の効果の表現を得るという手法を適用する。したがって黒を使用しないといった諸原則を取り入れている。
彼らはまさに近代市民階級の日常的な視覚を確立しただけではなく、それに伴う意識、幸福感や変化するものをとらえる自然観などをも確立したといってよい。印象主義そのものが社会的認知を受けるのは20世紀になってからのことである。しかしそれ以後、その市場価格が示すように、実に多くの共感を得ている。また、印象主義の各国への伝播(でんぱ)は、近代社会の成立に伴う市民たちの意識の成長に伴うかのように、他の国々にも伝わっている。
[中山公男]
新印象派と後期印象派
1890年前後、いわゆる「世紀末」に近づくにしたがって、さまざまな変化が現れる。現実の生活を描いた印象派の作品が十分に社会に受容されていないことを知った印象派の画家たち自身が、しだいにそれぞれの孤独な生活と画境のなかに入る。ジベルニーに隠棲(いんせい)したモネ、エクスで孤独に描いたセザンヌ、モレ周辺でだれよりも不遇だったシスレーなど。しかしこうした孤独がいっそう彼らの画境を高めた。
やがて印象派の仕事をより科学的に厳密化しようとしたスーラ、シニャックたちの新印象派が成立する。また、ロートレック、ゴーギャン、ゴッホたちは、印象主義に学びつつより自己主張の強い主題、画風で作品を描く。印象派の画家たちは、少なくとも初期には自らの属する新しい近代社会を信頼し礼讃(らいさん)していたが、ロートレックたち次の世代は、はっきりと社会と自分たちの間に横たわる悲劇的な隔たりを自覚していた。このロートレックやゴーギャンたちをあわせて後期印象派とよぶ場合もある。
しかし「世紀末」の特徴的な現象は、もっと広範な文化現象として現れたかのように思える「象徴主義」の全盛と、「アール・ヌーボー」趣味のやはりきわめて広範な流行である。
[中山公男]
象徴主義とアール・ヌーボー
すでに印象派の時代にしだいにはっきりし始めていたことだが、近代の進歩、科学的実証性と技術革新による進歩という観念は挫折(ざせつ)する。たとえば機械産業の労働の苛酷(かこく)さは、社会の摩擦、政治的な争いを生み市民社会の爛熟(らんじゅく)は、さまざまな堕落、腐敗現象を生む。こうして、楽天的な現実肯定であった印象派的世界観に対置するかのように、象徴性、幻想性、内面性を重視する美術表現が全ヨーロッパ的におこる。フランスでも、ひたすらに内面の世界を見つめたルドン、神話的世界の超越性を精緻な工芸的な表現で描いたモロー、同じく古典的な楽園の静かな詩情を壁画に描いたピュビス・ド・シャバンヌたちが出ている。
また文学のほうではマラルメたちの象徴派が、ゴーギャンを美術の象徴主義者として遇していたし、ゴーギャンの教えを契機として発足した若い芸術家たちのグループ「ナビ派」もやはりフランス象徴主義の一角をなしている。
他方、「世紀末」は、家具、工芸、室内装飾といった分野で、1890年代から20世紀初頭にかけて、アール・ヌーボーのやはり全世界的な波に浸されている。この場合も象徴主義と同様、フランスは重要な発信源の一つであった。
パリで装飾美術の店「アール・ヌーボー」を開いたビングSamuel Bing(1838―1905)、ポスターで一世を風靡(ふうび)したミュシャ、ナンシーの装飾工芸家たちを引き連れたガレ。ジャポニスムをはじめとしてさまざまな異国情緒的な装飾原理が取り入れられる。19世紀後半のヨーロッパは、各地で開催される万国博覧会で新しい異国の装飾原理に接触する機会をもち、なかでもジャポニスムはもっとも芸術的な刺戟であった。すでに印象派の画家たちにとって、あるいはそれ以前からジャポニスムは重要な啓示であったが、工芸、装飾、建築にとっても大きな刺戟であった。植物、花、昆虫、波、雲、それらの自由な曲線やシルエットが彼らに新しい装飾原理を教える。さまざまな異国情緒を導入してきたヨーロッパは、世紀末、自らに閉じこもるためのもっとも安定した原理を求める。壁紙、家具、装身具、さらに建築へとアール・ヌーボーは展開する。住宅のカステル・ベランジェやパリのメトロの入口の装飾を設計したギマールなどがその例である。
さらに観察を進めるなら、アール・ヌーボーの装飾の多くは、ガレの作品が典型的に示すように、象徴主義的な意味をしばしば含んでいるということ、逆に、後期印象派、新印象派、そして象徴派の絵画作品の構図に、明らかにアール・ヌーボーと同質の曲線が作用しているのを知ることになる。
[中山公男]
絵画の時代としての19世紀
それぞれの時代に主導的な役割を果たす芸術がある。19世紀は、明らかに絵画の時代であった。それも額縁に入れられた比較的小さな、つまり18世紀までの宮殿や教会内部を飾る壁画類に比べて小さなサイズの油彩画である。もちろんこの時代にも、ドラクロワやシャバンヌのように、建築のための壁画や大作を描いた画家たちがいなかったわけではない。けれども、それらはごく例外的な注文であったし、人目に触れる機会は少なかった。芸術の注文主の大多数は市民階級であり、彼らの住宅や別荘の壁面を飾るのに十分な大きさであればよかった。主題が風景、風俗、静物、肖像といった日常性が好まれたのも同じ理由である。したがって画家たちは、注文主の意向や建築への適合性や主題にさほど気がねすることなく、というよりそれらを想定しえないままに、自らの世界を四角い額縁の枠のなかに実現することにすべてを傾けた。
[中山公男]
19世紀の建築と彫刻
明らかに19世紀の建築は付随的な芸術であった。古典主義の流行には古代風の様式が、ロマン主義には回顧的なゴシック様式のリバイバルが、その後の復古時代には王朝期風の復古様式が用いられ、そしてやがて折衷主義となる。もちろん、パリの凱旋門(がいせんもん)、オペラ座、エッフェル塔と、いくつかの重要な記念建造物があり、今日でもパリの都市風景の中心をなしている。しかし、建築でそれ以上に重要なことは、新しいパリの市街地の整備と造成であろう。
彫刻も、公共の注文の多くを失って、かならずしも活動的であったとはいえない。ダビッド・ダンジェDavid d'Angers(1788―1856)、リュード、カルポーら、いわゆる「ローマ賞」の彫刻家たちはイタリアへ送り出されたが、エトアール広場の凱旋門、パリのパンテオンなどモニュメンタルな作品を発表する場はわずかしか与えられていない。
国家的なプロジェクトが急速度に減少し、それにかわるように第三共和政時代以降、地方自治体あるいは民間の団体や協会が、かろうじて彫刻家への発注主になる。1874年以来造営されてきたパリ市庁舎は、パリ市の偉人たちの肖像を230人の彫刻家に注文して庁舎を飾った。ロダンのバルザック像は文芸家協会の発注で、1898年のサロンにその石膏像が出品されたが、協会はこれを拒否し、最終的にブロンズ像がラスパイユ通りに立つのは1939年のことである。ロダンでさえサロン出品という形で世に問わねばならなくなっていた。しかしロダンの、内的には詩的、思索的、ときには激情的な精神をはらみ、外的には自然主義的な形態把握と、光と影をつくる肉付けによって量塊の美しさなり強さなりを生む彫刻は、まさに近代彫刻の確立であった。
[中山公男]
20世紀
印象派の認知
19世紀末から20世紀初頭にかけて、ゴッホ、ロートレック、ゴーギャン、ピサロ、セザンヌたちが次々と世を去っている。1901年のパリ万国博覧会は、アール・ヌーボーの勝利を明らかにしたが、このときの「フランス絵画百年展」は、印象派の社会的、公的な認知の最初の表明でもあった。世を去った印象派、後期印象派の画家たちの没後回顧展は次々と開催され、改めて印象主義、後期印象主義の成果を若い画家たちに刻印する。とりわけゴッホ、ゴーギャン、セザンヌの回顧展は衝撃的な効果を与える。
[中山公男]
フォービスムとキュビスム
1900年は、ピカソがパリに最初に滞在した年で、ブラックも同じ年にパリに出て美学校に入学するが、2人が出会うのはかなり後である。1901年は、すでに美学校でドラン、マルケたちと知り合っていたマチスが、ドランの紹介でパリ近郊のシャトゥーにアトリエを構えていたブラマンクに出会う年である。こうして1905年、サロン・ドートンヌの一室で「野獣(フォーブ)」と名づけられたグループが誕生し、数年後、ピカソは最初期のキュビスムの作品『アビニョンの娘たち』を描き上げ、まもなくブラックと出会う。ブラックもセザンヌの教訓から、方形や円筒形へと事物の単純化を試みるセザニスムの作品を描き、新しい視覚革命を実現したころである。
ルネサンス以来、写実主義の基本的な原則に基づいて発展してきた西欧絵画は、自然の形態や色彩をかなり恣意(しい)的に描いても、だれにも認知しうる形であり色であることを放棄したことはない。同じように、空間を構成する遠近法の原則も守られ続けている。セザンヌ、ゴッホ、ゴーギャンもぎりぎりの線でその枠内にとどまっている。それに対して、フォービスムは色彩の点で写実主義の規範をくつがえし、ピカソ、ブラックたちのキュビスムは、形態と遠近法という点で同種の革命をなしとげたといえるであろう。前者は情緒と表現性に関する革命であり、後者は現実の知的把握と造形論理の変革となる。
フォービスムを促したのは、一方ではロートレック、ゴッホ、ゴーギャンの作品における色彩の表現主義的な使用、そして新印象主義、とくにシニャックのきわめて色彩的な点描主義によって、色彩それ自体の価値に気づいたことに始まる。他方、キュビスムは、すでにセザンヌが多用していた物体の単純化と多視点的な遠近法というセザニスムと、アフリカの黒人彫刻、イベリア彫刻の刺戟によって始まる。
世紀末ヨーロッパは、ようやく異文化を、単なる博物館学的興味や異国情緒としてではなく、それ自体独立した文化として認知し、新しい視覚を獲得しようとしていた。20世紀という新しい時代の情緒的な刺戟と機械時代のイメージがそこに重なってくる。フォービスムもキュビスムも、第一次世界大戦という障害もあり、短時日でそのグループとしての役割を果たして発展的に解消するが、20世紀の美術にとって本質的なものとなった。
[中山公男]
モンマルトルとモンパルナス
第一次世界大戦前はモンマルトル、その後しだいにモンパルナスのほうが盛んになるが、物価も家賃も安い新興の住宅地が、芸術家、文学者、学生、異国人たち、亡命者たちの巣窟(そうくつ)となり、パリを、中世のパリに劣らず魅力的な世界都市とする。多くの外国人芸術家たちが集散して青春を謳歌(おうか)したため、ある種の連帯のような雰囲気が成立する。
[中山公男]
エコール・ド・パリ
モディリアニ、スーチン、キスリング、パスキンたち、それにユトリロや藤田嗣治(つぐはる)たち、あるいはピカソやシャガールらも加えて、エコール・ド・パリと名づけられる場合がある。外国人作家たちは、いずれも故国の絵画的な伝統、文化的な感性をいわば核として、さまざまに個性的な世界をつくりあげ、20世紀初頭から第二次世界大戦前までのフランス美術をつくりあげる。無国籍に近い芸術家たちの放埒(ほうらつ)さと哀愁、そして青春が彼らの作品を彩る。このエコール・ド・パリは、フランス風の表現主義と考えるべきであろう。ユトリロの叙情的世界もまたそれであり、ピカソ、ブラック、マチスたちに並ぶ巨匠ルオーは、より精神性の高い表現主義画家である。ピカソが親交し、作品まで購入したアンリ・ルソーは、単なる日曜画家であることをはるか超えて、アンデパンダンな世界を築いている。
[中山公男]
第一次世界大戦から1920年代
キュビスムの展開とシュルレアリスム
第一次世界大戦中から戦後にかけて、キュビスムは分析的キュビスムから総合的キュビスムへと変化し、ピカソ自身は大戦後の人間性回復を謳歌するかのように古典的人間像を復活させたりしたが、キュビスムの原理と回復した自然主義、人間主義は、多くの画家たちの作品にも現れる。
他方、この平和な1920年代は、ブルトンのシュルレアリスム宣言の時代でもある。シュルレアリスムは、第一次世界大戦中にスイスのチューリヒでおこったデュシャンたちのダダをその原点の一つとしている。フロイトの影響のもとに、意識下の非合理な世界を見つめようとする姿勢、ある種の自動記述(オートマチスム)の手法、フロッタージュ、コラージュなどの手法の併用によって新しいイメージが出現する。
[中山公男]
オルフィスムと抽象への道
一方、キュビスムから派生した流派は、たとえばロベール・ドローネーたちのオルフィスムのように、未来派への、あるいは別な見方をすれば抽象への道を準備する。事実ドイツのカンディンスキーやオランダのモンドリアンは早くから抽象に接近し、やがて1930年代の、そして第二次世界大戦後の抽象の全盛期をつくりあげる方向が定まる。
[中山公男]
シャガールとミロ
キュビスムに強い刺戟を受けたシャガール、そしてスペイン出身でより多くシュルレアリスムとの接触のあったミロは、ともにシュルナチュラリスムというべき世界をつくりあげる。生地への郷愁とパリの造形の間で、シャガグールは夢幻的な語り手、熱狂的な愛の吟遊詩人として、自然の重力その他の法則を無視したイメージを生み続ける。ミロは、自然、宇宙に心を通わせ、記号化、象徴化の手法で独自な世界を打ち立てる。
こうして、第一次世界大戦終了後から1920年代末の世界恐慌まで、フランス美術は驚くべき多様な優れた才能によって多様な方向を提示する。そしてしばしば、こうした貪欲(どんよく)な才能は、他の異質な技法や方向を部分的にとり入れて活気を高めている。
[中山公男]
レジェ、ボナール、ビュイヤール
一時的に古典復活、人間主義礼讃をみせたピカソに促されるかのように、また第一次世界大戦後の「秩序への回帰」を求めて、一種の古典主義的な方向が抽象的方向と融和したり、あるいはシュルレアリスムと結び付いたりする。レジェの試みる人間と機械のイメージの合成、機械主義に対する礼讃は、キュビスムと古典主義志向との合成から生まれる。ボナールやビュイヤールは、ナビ派時代よりももっと生き生きした視線で室内の生活や田園の生活を見つめる。
[中山公男]
版画アルバムの普及と舞台美術
この時期から版画アルバムが実に大量に制作販売されていることも注目に値する。19世紀末、それまで専門のポスター画家の手にゆだねられていたポスター類に、ボナール、ロートレックたちが手を染めだしてから、大衆芸術の名のもとで、急速度に版画類が普及し始める。画商のボラールたちが出版主となり、画家たちに仕事を供給する。ルオー、ピカソ、マチス、シャガール、ボナールなどほとんどすべての画家たちが、版画技法を探求しつつ、物語や詩集を飾るアルバムを出版する。
また多くの画家たちが劇やバレエやオペラの舞台装置や衣装を担当し、デュフィたちはファッションデザイナーに衣装の模様やスタイルを供給する。さらに社交界、高級娼婦(しょうふ)たちの登場する華麗な半社交界(ドミ・モンド)には、バン・ドンゲンたちが華やかな肖像画家として君臨していた。
[中山公男]
1930年代
世界恐慌による景気の沈滞だけではなく、この時代の政治的環境が、少しずつ芸術の世界にも不安な予感の影を投げかける。表面的には、むしろ1920年代よりも熟した雰囲気、華やかさは持続していたが、二つの大戦の間にある時代の緊張感が本能的に感じとられていたのかもしれない。
1930年代には、抽象を目ざす画家たちにとっては、ようやく自分たちの運動が実りだすのではないかと思わせる空気もあった。不安や現実拒否こそ、抽象への精神を育てるものであったからである。1932年、パリで非具象主義を求める画家たちのグループが結成される。「抽象・創造(アプストラクシオン・クレアシオン)」と名づけられたこのグループの主要なメンバーは、モンドリアン、カンディンスキー、ロベールとソニアのドローネー夫妻、ペブスナー、ガボ、ニコルソン、ブランクーシたちであった。
やがて、1930年代後半、不安は現実化してゆく。ピカソの『ゲルニカ』、ダリの『内乱の予感』が描かれる。そしてファシズムによる「退廃芸術展」がドイツ各地で開催され、やがて戦火が開かれ、多くの画家たちがパリを離れ、あるいはアメリカへ亡命という事態となる。
[中山公男]
20世紀前半の彫刻
ブールデル、マイヨールとセクション・ドールの作家たち
ロダンのもとで長く助手を務めたブールデルをもって20世紀のフランス彫刻の発足とみなすことができるであろう。彫刻の塊量性と触覚性を、それを包む空間と干渉させることによって、近代彫刻に生命を与えたロダンの手法と精神を受け継ぎながら、構成主義的な、建築的な力動感を与えたブールデルの彫刻は、20世紀の一つの傾向を明らかにしていたといえる。やはりロダンの影響下にデビューしたマイヨールは、明るい古典的な人体表現で、地中海的な感性を復活させる。
キュビスム、そしてそこから必然的に非具象、抽象の方向へと流れた20世紀前半の絵画の歴史は、当然彫刻にも影響し、たとえばローランス、リプシッツ、アルキペンコのような「セクション・ドール(黄金分割)」に加わった彫刻家たちの名があげられる。
[中山公男]
画家による彫刻
多くの画家たちが彫刻を試み、彫刻家たちが他の分野で自己の才能なり意図を示そうとすることは、この世紀ではごく普通のことであった。たとえば、ドガ、ゴーギャン、モディリアニ、マチス、ピカソ、ブラック、ダリ、ミロの名があげられる。絵画的な視覚が彫刻的な触覚と対応し、接触する地点の表現として、きわめて興味深い。
[中山公男]
他文明の彫刻の影響
また、ヨーロッパ彫刻史ではなく、他文明の彫刻から学ばれ、出発したものが多いことも注目に値する。ゴーギャンは、中南米、オセアニア、あるいはブルターニュ地方の民俗彫刻などからその造形を生み出した。ピカソは、アフリカの黒人彫刻や地中海沿岸の美術館に残る先史彫刻からしばしばヒントを得ている。モディリアニの彫刻には、北イタリアの中世彫刻などのほかに、アフリカ彫刻の啓示がある。これらの異質の造形は、たとえば、塊量空間、充実空間のみを追求してきたヨーロッパ彫刻に対して、虚空間もまた造形の重要な要素であることを教える。その後の現代彫刻、立体造形にとってきわめて重要な要素であるが、このような影響摂取は、20世紀初頭のフランスがもった自由な環境のなかでのみ成立しえたといってよい。
[中山公男]
オブジェの観念
一方、ダダ、シュルレアリスムも「オブジェ」の観念を定立することによって、彫刻の存在そのものの否定的な契機となりかねない革命を引き起こしている。シュルレアリスムにおける形態の軟体化は、塊量そのものを不定形にすることによって同じ役割を果たした。
[中山公男]
キュビスム彫刻とピューリスム
アール・ヌーボーの勝利が20世紀初頭の建築、工芸の状況であったが、1912年のサロン・ドートンヌに、彫刻家のレイモン・デュシャン・ビヨンは「キュビスト館」を設計し、ジャック・ビヨン、ローランサン、ロジェ・ド・ラ・フレネーNoël-Roger de La Fresnaye(1885―1925)たちの作品を展示してスキャンダルをおこしている。不幸にしてデュシャン・ビヨンは第一次世界大戦中に戦死するが、ル・コルビュジエとオザンファンの2人は「キュビスム以後」という書物でフランスへのモダニズムの導入の必要を説き、さらに雑誌『エスプリ・ヌーボー』(1920~1925)で諸芸術における「造形言語の純粋化」を説くピューリスムを唱導している。
[中山公男]
第二次世界大戦後の美術
「1946年、美術の再興」展
第二次世界大戦中、多くの芸術家たちは四散し、ピカソたちごくわずかの芸術家がパリで制作を継続しえたが、物資の不足などあらゆる戦時下の耐乏生活と、ドイツ軍の監視のなかでの暗い忍耐強い制作を続けざるをえなかった。当時のピカソの作品がその証明である。多くの芸術家はアメリカに亡命し、あるいは地方でやはり不自由な制作を持続している。それにもかかわらず制作はなされたし、展覧会の試みもひそやかになされた。したがってパリ解放後の美術活動の復活は驚くほど早かったようである。
1946年の時点でフランスに在住し、「フランスの国民的文化を守った」芸術家たちの作品がかなり大規模に展示された「1946年、美術の再興」展(1996、アンティーブ美術館)には、実に迫力ある当時の制作がみられる。中心になるのは、当のアンティーブ美術館がその後身であるグリマルディ城を当時アトリエとしていたピカソの大作『生きる喜び』とその関連作、戦時中、戦後であっても、あくまでも輝かしく光と色彩に満ちた作品を描くボナール、逆に、ダッハウ収容所における虐殺に関する裁判での告発に衝撃を受けて描かれた、オリビエ・ドブレOlivier Debre(1920―1999)の一連の黒い絵。また、やがて「アンフォルメル」として名前の出る一群の若い画家たちが、いずれも戦争の惨禍に直面した世界を描いている。たとえばド・スタールは、まるで木材の破片が無秩序に散らばっているかのような暗い絵に『苛酷な生』と名づけている。戦争の記憶と戦後世界への希望のどちらかが基本的な作画の動因であり、技法はそのテーマに応えるかのように自由に展開する。
[中山公男]
芸術と社会
この時代以降、フランス美術はかなり長期にわたって、戦時中の対独協力の問題、さらにピカソの共産党入党に象徴されるような政治参加、社会参加の問題で揺れる。フランスという社会あるいは国は、たとえば、ルイ14世時代、革命時、ナポレオン時代と、しばしば芸術に社会参加を求めることがある。それが、よい意味でも悪い意味でもフランス的なものの持続と顕現に役だっているとも考えられる。
[中山公男]
抽象主義の全盛期とアンフォルメル
抽象主義の隆盛
1945年、解放後まもないパリで「具体美術展」が開かれている。ここにはモンドリアン、アルプ、ドローネーたちの戦前の作品、カンディンスキーやペブスナーの戦時中の作品が展示された。アメリカに亡命したモンドリアンも、1933年以来フランスに定住していたカンディンスキーも、奇しくも1944年に世を去っている。しかし彼らの作品から出発した若い世代がすでに育っていた。
1945年設立の「サロン・ド・メ」展、翌1946年の「サロン・デ・レアリテ・ヌーベル」展は、ともに若い世代、それも抽象傾向の画家たちが顔をそろえている。バゼーヌ、エステーブMaurice Estève(1904―2001)、シュネデールGérard Schneider(1896―1986)たちである。
[中山公男]
アンフォルメルの衝撃と拡散
抽象の方向には、先駆者モンドリアンとカンディンスキーにみられるように、幾何学的抽象と叙情的抽象の差があったが、それらはしだいに、ほとんど区別しがたいほどに接近し、あるいは半抽象に近い画風も現れ、一般的には表現主義的傾向を内在させることになった。こうした状態のなかで、批評家ミシェル・タピエが1951年、ボルス、マチュー、ポロック、デ・クーニングなどフランス外の画家たちをも含む展覧会「対立する激情」を開催し、翌年にはファルケッティ画廊の店主となって「アンフォルメルの意味するもの」と名づけられた展覧会を催している。「抽象的でもなく具象的でもない」マチエールや線の発する内面的な世界の発現で、新しい時代の『別の芸術』(タピエが1952年に刊行した小冊子のタイトル)を主張するこの運動は、戦後の一時代をつくるほど国際的な広がりをもち、インパクトをもった。
フォートリエの『人質』の連作、デュビュッフェの仮面や偶像たち、ボルスの形態を喪失し、それでも生きようとするとき内部で何かをはじけさせずにはおかないといった作品群、ミショーの遠い彼方を見つめるインクの詩。いずれも内的な激情によってしか描きえない精神のあり方を示している。
タピエの運動は、1950年代末から1960年代なかばにかけて、さまざまな方向へと拡散することによってエネルギーを失い始める。マチューなどのパフォーマンスによって、作品より行為へと拡大してゆくとき、もはや絵画の領域ではなくなる。また国際的な連帯、とりわけアメリカの現代絵画と結び付いたが、いつのまにか舞台はアメリカとなっていたのである。そしてフランスは、いつのまにか独自の、内的なモチーフを見失いだしていた。
若い世代の伸び悩みを埋め合わせるかのように、戦前からの巨匠たちはいずれも長命であり、大量に作品を制作し、話題性に事欠かなかった。また美術館の整備は進み、良質の展覧会が多くの観光客をひきつけている。
[中山公男]
『ミシェル・ラゴン著、小海永二訳『美の前衛たち フランス現代絵画』(1962・美術出版社)』▽『篠田浩一郎著『フランス 美と歴史を歩く』(1977・美術出版社)』▽『京都国立近代美術館編『フランスのポスター美術 18世紀から現代まで』(1979・講談社)』▽『池上忠治著『フランス美術断章』(1980・美術公論社)』▽『『原色世界の美術1 フランス1 ルーヴル美術館』『原色世界の美術2 フランス2 パリの美術館』(ともに1983・小学館)』▽『岡部あおみ著『アート・フィールド フランス現代美術』(1992・スカイドア)』▽『鈴木杜幾子著『ナポレオン伝説の形成――フランス19世紀美術のもう一つの顔』(1994・筑摩書房)』▽『フランソワーズ・ルヴァイアン著、谷川多佳子ほか訳『記号の殺戮』(1995・みすず書房)』▽『エミール・カウフマン著、白井秀和訳『理性の時代の建築 フランス篇 フランスにおけるバロックとバロック以後』(1997・中央公論美術出版)』▽『井出洋一郎著『フランス美術鑑賞紀行1 パリ編』』▽『井出洋一郎著『フランス美術鑑賞紀行2 パリ近郊と南仏編』(ともに1998・美術出版社)』▽『山梨俊夫・長門佐季著『フランス美術基本用語』(1998・大修館書店)』▽『天野知香著『装飾/芸術 19―20世紀フランスにおける「芸術」の位相』(2001・ブリュッケ)』