永野修身(読み)ナガノオサミ

デジタル大辞泉 「永野修身」の意味・読み・例文・類語

ながの‐おさみ〔‐をさみ〕【永野修身】

[1880~1947]軍人。海軍大将・元帥。高知の生まれ。ロンドン軍縮会議首席代表・海相・連合艦隊司令長官・軍令部総長などを歴任第二次大戦後、戦犯指名され、裁判中に病没

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典 「永野修身」の意味・読み・例文・類語

ながの‐おさみ【永野修身】

  1. 軍人。海軍大将。元帥。高知県出身。ロンドン軍縮会議全権委員、海相、連合艦隊司令長官、軍令部総長を歴任。第二次世界大戦後、A級戦犯に指名されたが国際軍事裁判審理中病死。明治一三~昭和二二年(一八八〇‐一九四七

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例

日本大百科全書(ニッポニカ) 「永野修身」の意味・わかりやすい解説

永野修身
ながのおさみ
(1880―1947)

大正・昭和期の海軍軍人。明治13年6月15日高知県生まれ。海軍兵学校28期、海軍大学校8期卒業。在米武官(1920~1923)、海軍兵学校校長などを経て1930年(昭和5)6月軍令部次長。1934年大将。翌1935年のロンドン軍縮会議では全権として脱退通告した。1936年3月広田弘毅(ひろたこうき)内閣の海相になると、海軍部内で南進政策の研究を本格化させるとともに、8月の5相会議「国策ノ基準」決定を積極的に主導した。1937年に10か月間連合艦隊司令長官を務めたあと軍事参議官、1941年4月から1944年2月まで軍令部総長。対米開戦にあたっては強硬派の代表として山本五十六(やまもといそろく)のハワイ航空奇襲作戦を支持、艦隊決戦論者を抑えた。1943年元帥。戦後A級戦犯に指名されたが、裁判中の昭和22年1月5日病死した。

山田 朗]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

新訂 政治家人名事典 明治~昭和 「永野修身」の解説

永野 修身
ナガノ オサミ


肩書
海相,海軍軍令部総長

生年月日
明治13年6月15日

出生地
高知県高知市

学歴
海兵(第28期)〔明治33年〕 海大(第8期)〔明治43年〕卒

経歴
日露戦争では旅順砲撃に参加。明治44年清国に派遣され、大正2年から米国に駐在してハーバード大学に学んだが、9年大使館付武官となり、有数なアメリカ通となる。進歩的なアイデアマンで、砲戦術新機軸を編みだし、米国流の人事管理論を使って人事考課法を刷新、また昭和3年海兵校長時代には実験的教育法のダルトン・プランを導入した。その後軍令部次長を経て、6年ジュネーブ軍縮会議全権委員、10年にはロンドン軍縮会議全権となって日本の同会議からの脱退を通告した。11年広田内閣の海相、12年連合艦隊司令長官となり、軍事参議官を経て、16年海軍軍令部総長に就任。対米開戦に際しては海軍部内の強硬意見を代表、開戦後は太平洋戦争の海軍作戦の最高責任者となる。19年元帥。戦後、A級戦犯に指名されたが裁判中に病死した。

没年月日
昭和22年1月5日

出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報

20世紀日本人名事典 「永野修身」の解説

永野 修身
ナガノ オサミ

明治〜昭和期の海軍元帥 海相;海軍軍令部総長。



生年
明治13(1880)年6月15日

没年
昭和22(1947)年1月5日

出生地
高知県高知市

学歴〔年〕
海兵(第28期)〔明治33年〕,海大(第8期)〔明治43年〕卒

経歴
日露戦争では旅順砲撃に参加。明治44年清国に派遣され、大正2年から米国に駐在してハーバード大学に学んだが、9年大使館付武官となり、有数なアメリカ通となる。進歩的なアイデアマンで、砲戦術の新機軸を編みだし、米国流の人事管理論を使って人事考課法を刷新、また昭和3年海兵校長時代には実験的教育法のダルトン・プランを導入した。その後軍令部次長を経て、6年ジュネーブ軍縮会議全権委員、10年にはロンドン軍縮会議全権となって日本の同会議からの脱退を通告した。11年広田内閣の海相、12年連合艦隊司令長官となり、軍事参議官を経て、16年海軍軍令部総長に就任。対米開戦に際しては海軍部内の強硬意見を代表、開戦後は太平洋戦争の海軍作戦の最高責任者となる。19年元帥。戦後、A級戦犯に指名されたが裁判中に病死した。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「永野修身」の意味・わかりやすい解説

永野修身 (ながのおさみ)
生没年:1880-1947(明治13-昭和22)

海軍軍人,元帥。高知県出身。海軍兵学校(28期),海軍大学校卒。アメリカ大使館付武官などをへて1930年に軍令部次長,35年にはロンドン軍縮会議全権に任命され会議脱退を通告した。その後,36年広田弘毅内閣の海相に就任,41年軍令部総長となって太平洋戦争の海軍作戦を指導した。44年天皇の海軍最高顧問となる。敗戦後,A級戦犯の指名をうけたが裁判中に病死。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「永野修身」の意味・わかりやすい解説

永野修身
ながのおさみ

[生]1880.6.15. 高知
[没]1947.1.5. 東京
海軍軍人。 1900年海軍兵学校,10年海軍大学校卒業。 13~15年アメリカに駐在。 20~23年ワシントン D.C.で大使館付き武官。その後,軍令部次長,31年ジュネーブ軍縮会議全権委員。 34年大将に昇進。ロンドン軍縮会議全権などを歴任し,36年海相。 37年に連合艦隊司令長官。 41年4月に軍令部総長となり,第2次世界大戦中の 44年2月まで太平洋戦争の作戦指導にあたった。 43年元帥。終戦後A級戦犯となり,裁判中に病没。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「永野修身」の解説

永野修身 ながの-おさみ

1880-1947 明治-昭和時代前期の軍人。
明治13年6月15日生まれ。昭和10年ロンドン海軍軍縮会議全権となり,同会議からの脱退を通告。広田内閣の海相,連合艦隊司令長官を歴任。16年軍令部総長となり,真珠湾攻撃を支持した。18年元帥。戦後,A級戦犯として裁判中,昭和22年1月5日病死。68歳。高知県出身。海軍大学校卒。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「永野修身」の解説

永野 修身 (ながの おさみ)

生年月日:1880年6月15日
明治時代-昭和時代の海軍軍人。海軍大臣;軍令部総長;元帥
1947年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

今日のキーワード

大臣政務官

各省の長である大臣,および内閣官房長官,特命大臣を助け,特定の政策や企画に参画し,政務を処理する国家公務員法上の特別職。政務官ともいう。2001年1月の中央省庁再編により政務次官が廃止されたのに伴い,...

大臣政務官の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android