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永野修身 ながの おさみ

美術人名辞典の解説

永野修身

海軍軍人高知県生。海軍兵学校海軍大学校卒業後、平戸艦長・軍事参議官等を歴任。ジュネーブ軍縮会議代表、太平洋海軍作戦の最高責任者。昭和22年(1947)歿、68才。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

永野修身 ながの-おさみ

1880-1947 明治-昭和時代前期の軍人。
明治13年6月15日生まれ。昭和10年ロンドン海軍軍縮会議全権となり,同会議からの脱退を通告広田内閣の海相,連合艦隊司令長官を歴任。16年軍令部総長となり,真珠湾攻撃を支持した。18年元帥。戦後,A級戦犯として裁判中,昭和22年1月5日病死。68歳。高知県出身。海軍大学校卒。

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世界大百科事典 第2版の解説

ながのおさみ【永野修身】

1880‐1947(明治13‐昭和22)
海軍軍人,元帥。高知県出身。海軍兵学校(28期),海軍大学校卒。アメリカ大使館付武官などをへて1930年に軍令部次長,35年にはロンドン軍縮会議全権に任命され会議脱退を通告した。その後,36年広田弘毅内閣の海相に就任,41年軍令部総長となって太平洋戦争の海軍作戦を指導した。44年天皇の海軍最高顧問となる。敗戦後,A級戦犯の指名をうけたが裁判中に病死。【吉田 裕】

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大辞林 第三版の解説

ながのおさみ【永野修身】

1880~1947) 海軍軍人。大将・元帥。高知県生まれ。海相・連合艦隊司令長官・軍令部総長をつとめた。太平洋戦争時の海軍最高責任者。戦後、戦犯として裁判中に病死。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

永野修身
ながのおさみ

[生]1880.6.15. 高知
[没]1947.1.5. 東京
海軍軍人。 1900年海軍兵学校,10年海軍大学校卒業。 13~15年アメリカに駐在。 20~23年ワシントン D.C.で大使館付き武官。その後,軍令部次長,31年ジュネーブ軍縮会議全権委員。 34年大将に昇進。ロンドン軍縮会議全権などを歴任し,36年海相。 37年に連合艦隊司令長官。 41年4月に軍令部総長となり,第2次世界大戦中の 44年2月まで太平洋戦争の作戦指導にあたった。 43年元帥。終戦後A級戦犯となり,裁判中に病没。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

永野修身
ながのおさみ
(1880―1947)

大正・昭和期の海軍軍人。明治13年6月15日高知県生まれ。海軍兵学校28期、海軍大学校8期卒業。在米武官(1920~1923)、海軍兵学校校長などを経て1930年(昭和5)6月軍令部次長。1934年大将。翌1935年のロンドン軍縮会議では全権として脱退を通告した。1936年3月広田弘毅(ひろたこうき)内閣の海相になると、海軍部内で南進政策の研究を本格化させるとともに、8月の5相会議「国策ノ基準」決定を積極的に主導した。1937年に10か月間連合艦隊司令長官を務めたあと軍事参議官、1941年4月から1944年2月まで軍令部総長。対米開戦にあたっては強硬派の代表として山本五十六(やまもといそろく)のハワイ航空奇襲作戦を支持、艦隊決戦論者を抑えた。1943年元帥。戦後A級戦犯に指名されたが、裁判中の昭和22年1月5日病死した。[山田 朗]

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