江原素六(読み)エバラソロク

デジタル大辞泉 「江原素六」の意味・読み・例文・類語

えばら‐そろく【江原素六】

[1842~1922]教育家政治家宗教家。江戸の生まれ。キリスト教徒で、麻布あざぶ中学校を設立。衆議院議員、のち勅選議員立憲政友会に重きをなし、終始教育問題に活躍。

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精選版 日本国語大辞典 「江原素六」の意味・読み・例文・類語

えばら‐そろく【江原素六】

  1. 明治・大正時代教育者、政治家。江戸の生まれ。昌平黌(しょうへいこう)講武所で、洋学、洋式調練を学ぶ。自由党に属して政界で活躍。麻布中学校(現在の麻布学園)を設立した。天保一三~大正一一年(一八四二‐一九二二

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新訂 政治家人名事典 明治~昭和 「江原素六」の解説

江原 素六
エバラ ソロク


肩書
衆院議員(政友会),麻布学園創立者

別名
幼名=鋳三郎

生年月日
天保13年1月29日(1842年)

出生地
江戸市外角筈五十人町

経歴
昌平黌に学び、練兵館で剣を修め、安政6年講武所で洋式調練を習得。高島秋帆のもとで砲術を教え、文久3年講武所砲術教授。明治元年鳥羽伏見の戦い、その他諸戦に幕臣として参加するが敗北し、沼津潜行、のち大赦をうけ、名を素六と改めた。3年静岡藩少参事・沼津兵学校掛、4年欧米視察、帰国後離禄士族のため開墾牧畜、茶の製造、輸出などに従事。8年静岡師範校長、12年沼津中学校長。11年受洗しキリスト教の伝道につとめた。22年上京しキリスト教系の東洋英和学校幹事、のち校長、28年麻生尋常中学校(のちの麻布学園)を創立して校長を務めた。37年東京基督教青年会理事長。一方23年以来静岡県、東京市から衆院議員当選7回、自由党、憲政党各総務、政友会幹部を務めた。45年勅選貴院議員。著書に「心の力」など。

没年月日
大正11年5月19日

家族
孫=稲葉 興作(石川島播磨重工業社長)

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20世紀日本人名事典 「江原素六」の解説

江原 素六
エバラ ソロク

明治・大正期の教育家,政治家 麻布学園創立者;衆院議員(政友会)。



生年
天保13年1月29日(1842年)

没年
大正11(1922)年5月19日

出生地
江戸市外角筈五十人町

別名
幼名=鋳三郎

経歴
昌平黌に学び、練兵館で剣を修め、安政6年講武所で洋式調練を習得。高島秋帆のもとで砲術を教え、文久3年講武所砲術教授。明治元年鳥羽伏見の戦い、その他諸戦に幕臣として参加するが敗北し、沼津に潜行、のち大赦をうけ、名を素六と改めた。3年静岡藩少参事・沼津兵学校掛、4年欧米視察、帰国後離禄士族のため開墾・牧畜、茶の製造、輸出などに従事。8年静岡師範校長、12年沼津中学校長。11年受洗しキリスト教の伝道につとめた。22年上京しキリスト教系の東洋英和学校幹事、のち校長、28年麻生尋常中学校(のちの麻布学園)を創立して校長を務めた。37年東京基督教青年会理事長。一方23年以来静岡県、東京市から衆院議員当選7回、自由党、憲政党各総務、政友会幹部を務めた。45年勅選貴院議員。著書に「心の力」など。

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改訂新版 世界大百科事典 「江原素六」の意味・わかりやすい解説

江原素六 (えばらそろく)
生没年:1842-1922(天保13-大正11)

明治・大正期のキリスト教主義教育家,政治家。東京の有名な私立中等学校,麻布中学校(麻布学園の前身)の創設者。幕府下級武士の家に生まれ,苦学して昌平坂学問所や講武所に学び,また近藤真琴などに師事して洋学を修めた。幕末の動乱では幕臣として各地に転戦し,敗北ののちは旧幕府の転封により沼津に移り,静岡藩(旧幕府)少参事となり1868年異色の沼津兵学校,同校付属小学校の創設に尽力した。71年太政官から派遣されて欧米各国を視察し,帰国後静岡県で教育や士族授産事業にあたる。78年カナダ・メソディスト教会で受洗,キリスト教の伝道につとめた。90年上京して当初東洋英和学校長,95年麻布中学校を創設し,以後没するまで同校長。90年最初の衆議院議員に当選,自由党,政友会の要職にあり,また1912年以降貴族院勅選議員。帝国議会において教育問題議事にしばしば参画した。
執筆者:

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「江原素六」の意味・わかりやすい解説

江原素六
えばらそろく
(1842―1922)

幕末の幕臣、明治・大正期の政治家、教育者。旗本江原源吾の子として江戸で生まれた。西洋流砲術を学び幕府陸軍の士官となり、戊辰戦争では下総(しもうさ)国で新政府軍と戦う。徳川家の駿河(するが)移封に従って沼津に移住し、静岡藩が陸軍将校の養成のために設立した沼津兵学校の経営に従事した。廃藩置県後は沼津地域や静岡県内で士族授産や殖産興業にとりくみ、静岡師範学校や沼津中学校の校長をつとめるなど、教育にも力を尽くした。1890年(明治23)衆議院議員に当選、その後長く自由党や立憲政友会に所属する代議士として活動、1912年には貴族院議員となった。東京では私立麻布中学校を創立し、その校長を生涯つとめた。また、東京基督(キリスト)教青年会理事長になったほか、禁酒運動や廃娼(はいしょう)運動、不良少年感化事業など、さまざまな社会事業に関与するなど、キリスト教界の名士としても幅広い活動を行った。

[樋口雄彦 2018年3月19日]

『村田勤著『江原素六先生伝』新版(1940・三省堂)』『江原先生伝編纂会委員編『江原素六先生伝』復刻版(1996・大空社)』『加藤史朗著『江原素六の生涯』(2003・麻布中学校・高等学校)』


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「江原素六」の意味・わかりやすい解説

江原素六
えばらそろく

[生]天保13 (1842).1.29. 江戸
[没]1922.5.19.
明治・大正期の教育者,政治家。カナダ・メソジスト派の代表的信徒。江戸幕府下級武士の出身で,維新の争乱後沼津に落ち着き,1868年の沼津兵学校設立に尽力。また沼津中学校校長や駿東郡長を務めた。1889年に上京し,カナダ・メソジスト本郷中央会堂で C.S.イビーのもとで働き,これを転機に東洋英和女学校(→東洋英和女学院大学)校長,1895年から麻布中学校校長として終生活動した。また東京基督教青年会婦人矯風会ほかに尽力。1890年に衆議院議員となり,1900年から立憲政友会に所属,1912年に貴族院議員となり,キリスト教界の内外に重きをなした。

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朝日日本歴史人物事典 「江原素六」の解説

江原素六

没年:大正10.5.20(1921)
生年:天保13.1.29(1842.3.10)
明治大正期の政治家,教育家。幼名鋳三郎。幕臣40俵の江原家に江戸で出生。昌平黌,講武所に学び,砲術教授方に昇進。戊辰戦争(1868~69)に撒兵隊長として参戦。明治2(1869)年静岡藩少参事,沼津兵学校創設に参画。4年政府の海外視察員として渡米。帰国後,沼津の小学校集成舎を管理,また士族授産のため諸事業を企画。師範学校長,県会議員,駿東郡長,沼津中学校長を歴任。この間11年,G.M.ミーチャムから受洗。23年衆院議員当選,自由党に所属。のち貴族院議員に勅選。28年麻布尋常中学校(のちの麻布学園)創立。麻布メソヂスト教会に所属し,終生円熟したキリスト教教育で多感な少年の教育に尽くし,麻布中学から広い分野に異色の人物を輩出した。

(高橋昌郎)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「江原素六」の解説

江原素六 えばら-そろく

1842-1922 明治-大正時代の教育者,政治家。
天保(てんぽう)13年1月29日生まれ。もと幕臣で,撒兵(さっぺい)隊頭。昌平黌(しょうへいこう)にまなぶ。維新後,静岡師範校長,沼津中学校長などをへて,明治23年第1回総選挙で衆議院議員(当選7回,政友会)。この間11年受洗,28年麻布中学を創設,校長をつとめた。大正11年5月19日死去。81歳。江戸出身。著作に「心の力」など。

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367日誕生日大事典 「江原素六」の解説

江原 素六 (えばら そろく)

生年月日:1842年1月29日
明治時代;大正時代の政治家;教育家
1921年没

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