生没年不詳。池坊いけ花の始祖といわれる。応仁(おうにん)の乱前の長禄(ちょうろく)・寛正(かんしょう)(1457~66)のころに活躍した、「たてはな」(初期のいけ花)の名手。京都・六角堂頂法寺(ちょうほうじ)の執行(しぎょう)であり、池坊の住僧。『碧山日録(へきざんにちろく)』1462年(寛正3)2月25日の条に、佐々木高秀の招きを受けた専慶が、金瓶(きんぺい)に数十枝の草花を立てたところ、洛中(らくちゅう)の好事家(こうずか)がこぞって見物したと記している。天台宗系の僧侶(そうりょ)として仏前供養の花を立てていたであろう専慶は、仏前の花から観賞に堪える挿花へとその第一歩を踏み出し、池坊いけ花成立の端緒を開いた。
[北條明直]
(岡田幸三)
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生没年不詳。室町中期の京都の紫雲山頂法寺(通称六角堂)の僧。室町中期,立花(たてはな)の上手として有名になった。東福寺の月渓聖澄(げっけいしょうちょう)の「百瓶華(ひゃくへいか)序」(1600成立)では池坊の流祖とする。「碧山日録」によれば,1462年(寛正3)近江国守護佐々木氏に招かれて金瓶に草花数十枝をさし,洛中の好事者が競って見物したという。
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…15世紀の中ごろ,8代将軍足利義政の時代には,同朋衆をはじめ多くの花の名手があらわれたが,池坊の寺僧にも巧みに花を立てるものがあった。1462年(寛正3),池坊専慶が金瓶に草花数十枝をたてたのを《碧山日録》は,〈皆その妙を嘆ずる也〉とつたえ,1525年(大永5),池坊専応は《二水記》のなかで,〈池坊六角堂執行花上手也〉と記されている。16世紀の中ごろは,いわゆる天文口伝書の時代であるが,《池坊専応口伝》や《専栄花伝書》がつたえるとおり,いろいろの立花(たてはな)の系統が池坊のなかにまとまってゆく時期であった。…
…
[立花の成立]
座敷飾の花として立花が成立したのは,室町中末期のことであって,立花の専門家が登場して将軍邸や禁裏において花を立てはじめ,それに従って法式がしだいに定められるようになった。《蔭涼軒日録》に見るように,立阿弥や台阿弥といった人々,また《碧山日録》に記される連歌師としても著名な池坊専慶,《言国卿(ときくにきよう)記》における山科家の雑掌,大沢久守などは,依頼を受けて花を立てた専門家の代表であるとみてよい。室町期の立花の様相を伝える《仙伝抄》に谷川流と記載のあるのは,公家邸において花を立てた谷川入道某の伝であろうし,これらの人々の活躍によって草創期のいけばなは,立花という法式を備えたいけばなを出現させる。…
… 六角堂は寺内塔頭(たつちゆう)の池坊が執行として代々経営管理に当たったが,この池坊は花道家元として名高い。すなわち池坊専慶が東山時代に立花(たてはな)の名手として世に知られ,花道池坊を創始し,ついで天文年間(1532‐55)専応(せんおう)が池坊の流れにおける花道を大成して花書を著し,朝廷や幕府や諸門跡に重用された。また江戸前期に出た専好(2世)がこの流を確立し,やがて町人社会にも花道が広まり,江戸中期に入ると池坊住持は家元として池坊花道を率いるようになった。…
※「池坊専慶」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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