安土桃山時代の武将。『池田家履歴略記』(岡山県郷土文化財団本)によると、「信輝(のぶてる)公初めは恒興、幼名勝三郎(しょうさぶろう)、剃髪(ていはつ)して勝入(しょうにゅう)公、諡号(しごう)を護国院」と記されている。「信輝」については『池田章政(12代岡山藩主)家譜』(池田家文庫)に「桶狭間(おけはざま)の戦に有功、信長より名字を授かりて、信輝と改め士大将となる」と記されているが、当時の古文書や良質の資料には、その名はみられない。父、池田恒利が浪人中、母、養徳院が織田信長の乳母となったことから信長に仕える。信長は養徳院の乳房のみ噛(か)み破らなかったから乳母になれたという。1560年(永禄3)桶狭間の戦いで功を上げ、1570年(元亀1)尾張国犬山城を与えられる。1579年(天正7)摂津で荒木村重を倒し、有馬(ありま)、尼崎、花隈(はなくま)の諸城を与えられる。1582年本能寺の変後、羽柴秀吉とともに明智光秀を討ち、宿老に列し京都の施政にもあたり、摂津国内10万石を与えられ大坂城に在城。翌1583年の賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いには、秀吉に属し柴田勝家を破り、美濃国13万石を与えられる。1584年織田信雄(おだのぶかつ)・徳川家康らが小牧山に陣をしき、秀吉と対立。秀吉方に属した恒興は、家康を挟撃する岡崎攻略作戦を献策し用いられ、豊臣秀次を総大将として進軍するが、家康軍の奇襲で秀次軍が崩壊し、恒興も嫡男元助(もとすけ)や女婿森長可(もりながよし)勢らとともに長久手(ながくて)で戦死した。
[人見彰彦]
安土桃山時代の武将。通称勝三郎,剃髪して勝入(しようにゆう)と号した。《寛政重修諸家譜》などは信輝とするが,この実名は確実な史料には見えない。母養徳院は織田信長の乳母。織田氏の諸征服戦に従軍,とくに1580年(天正8)摂津の荒木氏を攻めて勲功をたて,同国内で領知を与えられ,高山・中川・安部・塩川・伊丹衆を与力とし,翌年摂津軍団を率いて因幡鳥取城攻略の助勢を命ぜられた。82年の本能寺の変後は羽柴(豊臣)秀吉にくみして明智光秀を山崎に破り,また織田氏の遺領を処分するため清須会議に参加し,父子で大坂・尼崎・兵庫12万石余を領した。83年大坂を秀吉に譲って美濃大垣に移り,翌年秀吉と織田信雄・徳川家康が争った小牧・長久手の戦では秀吉につき,戦線の膠着(こうちやく)状態を打破するため三河岡崎への奇襲戦を献策,羽柴秀次・堀秀政・森長可らと尾張長久手まで進出したところを家康に追撃され,4月9日長男之助とともに戦死した。
執筆者:岩沢 愿彦
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(平野明夫)
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…(1)南北朝・室町・戦国期の摂津の国人。橘諸兄の後裔とする伝承があるが不詳。1363年(正平18∥貞治2)の幕府文書に摂津守護赤松光範の被官として池田親政とあるのが初見。南北朝中期,守護より加茂庄(現,兵庫県川西市)の半済地をあてがわれ,また垂水西牧小曾禰村(現,豊中市)の番頭にも名がみえる。室町期には守護細川氏の有力被官となり,伊丹,吹田両氏と並ぶ摂津屈指の土豪に成長した。加茂,垂水のほか,細川庄,桜井郷など各荘園の代官を兼ね,給分を資本に高利貸も行って,応仁の乱ころは年収1万2000貫,〈富貴無双〉とうたわれた。…
…その範囲は兵庫区,北区を中心に長田区の一部を含む地域らしい。【石田 善人】 織田信長のもとで摂津の大名となった荒木村重が信長に反して没落したあと,1580年(天正8)村重討伐に功があった池田恒興に摂津の〈諸所多く〉とともに,兵庫津が与えられた。恒興は兵庫の地に一城を構え,城の周りに溝渠(こうきよ)を,町の外郭に惣構の都賀堤(とがのつつみ)を築いた。…
※「池田恒興」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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