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池田恒興 いけだつねおき

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

池田恒興
いけだつねおき

[生]天文5(1536).尾張
[没]天正12(1584).4.9. 尾張
戦国~安土桃山時代の武将。別名を信輝 (のぶてる) といい,出家後は勝入と称した。恒利の子で,母は織田信長の乳母であった。そのため信長とは乳兄弟の関係にあり,信長に従って桶狭間の戦いなどで功を立てた。信長明智光秀本能寺で討たれてからは (→本能寺の変 ) 豊臣秀吉に従い領国として摂津大坂,尼崎,兵庫 12万石を与えられ,次に美濃大垣に国替し,秀吉からは宿老として重んじられた。天正 12 (1584) 年の小牧・長久手の戦いに際して出陣,徳川氏の根拠である三河国を直接攻撃しようとしたが,嫡子元助とともに討死にした。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

池田恒興 いけだ-つねおき

1536-1584 戦国-織豊時代の武将。
天文(てんぶん)5年生まれ。池田恒利の子。母養徳院織田信長乳母(めのと)になったことから,幼少より信長につかえて諸戦に功をたてる。天正(てんしょう)8年荒木村重の摂津花隈(はなくま)城(神戸市)を攻略し,摂津に領地をあたえられた。本能寺の変後,豊臣秀吉にくみして明智光秀をやぶり,11年美濃(みの)(岐阜県)大垣城主となる。13万石。長久手(ながくて)の戦いで徳川家康軍に敗れ,天正12年4月9日戦死。49歳。名は信輝(のぶてる)とも。号は勝入(しょうにゅう)。

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朝日日本歴史人物事典の解説

池田恒興

没年:天正12.4.9(1584.5.18)
生年:天文5(1536)
戦国・安土桃山時代の武将。通称は勝三郎,紀伊守。勝入と号す。池田恒利と織田信長の乳母養徳院の子。信秀・信長父子に仕え,信秀から諱の1字を与えられ信輝と名乗ったとされる。ただし,信輝という名は確認されていない。天正8(1580)年荒木村重の属城花熊城(神戸市)を攻略し,摂津に所領を与えられた。このころ明智光秀の与力となる。同10年本能寺の変後,羽柴(豊臣)秀吉と共に光秀を討ち,柴田勝家,秀吉,丹羽長秀と並んで織田家宿老に列す。同11年賤ケ岳の戦には秀吉に味方する。戦後,美濃大垣13万石を与えられる。同12年小牧・長久手の戦では,秀吉方として緒戦に犬山城を攻略。その後,膠着状態の打開策に三河を衝くことを進言。先陣として三河へ向かうが,徳川家康に見破られ,子の元助らと共に長久手で戦死した。<参考文献>谷口澄夫「池田氏」(『地方別日本の名族』9巻)

(平野明夫)

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世界大百科事典 第2版の解説

いけだつねおき【池田恒興】

1536‐84(天文5‐天正12)
安土桃山時代の武将。通称勝三郎,剃髪して勝入(しようにゆう)と号した。《寛政重修諸家譜》などは信輝とするが,この実名は確実な史料には見えない。母養徳院は織田信長の乳母。織田氏の諸征服戦に従軍,とくに1580年(天正8)摂津の荒木氏を攻めて勲功をたて,同国内で領知を与えられ,高山・中川・安部・塩川・伊丹衆を与力とし,翌年摂津軍団を率いて因幡鳥取城攻略の助勢を命ぜられた。82年の本能寺の変後は羽柴(豊臣)秀吉にくみして明智光秀を山崎に破り,また織田氏の遺領を処分するため清須会議に参加し,父子で大坂・尼崎・兵庫12万石余を領した。

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大辞林 第三版の解説

いけだつねおき【池田恒興】

1536~1584) 安土桃山時代の武将。出家して勝入と号す。織田信長に仕えて活躍、本能寺の変後は豊臣秀吉に仕え、小牧・長久手の戦で戦死。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

池田恒興
いけだつねおき

安土桃山時代の武将。『池田家履歴略記』(岡山県郷土文化財団本)によると、「信輝(のぶてる)公初めは恒興、幼名勝三郎(しょうさぶろう)、剃髪(ていはつ)して勝入(しょうにゅう)公、諡号(しごう)を護国院」と記されている。「信輝」については『池田章政(12代岡山藩主)家譜』(池田家文庫)に「桶狭間(おけはざま)の戦に有功、信長より名字を授かりて、信輝と改め士大将となる」と記されているが、当時の古文書や良質の資料には、その名はみられない。父、池田恒利が浪人中、母、養徳院が織田信長の乳母となったことから信長に仕える。信長は養徳院の乳房のみ噛(か)み破らなかったから乳母になれたという。1560年(永禄3)桶狭間の戦いで功を上げ、1570年(元亀1)尾張国犬山城を与えられる。1579年(天正7)摂津で荒木村重を倒し、有馬(ありま)、尼崎、花隈(はなくま)の諸城を与えられる。1582年本能寺の変後、羽柴秀吉とともに明智光秀を討ち、宿老に列し京都の施政にもあたり、摂津国内10万石を与えられ大坂城に在城。翌1583年の賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いには、秀吉に属し柴田勝家を破り、美濃国13万石を与えられる。1584年織田信雄(おだのぶかつ)・徳川家康らが小牧山に陣をしき、秀吉と対立。秀吉方に属した恒興は、家康を挟撃する岡崎攻略作戦を献策し用いられ、豊臣秀次を総大将として進軍するが、家康軍の奇襲で秀次軍が崩壊し、恒興も嫡男元助(もとすけ)や女婿森長可(もりながよし)勢らとともに長久手(ながくて)で戦死した。[人見彰彦]

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世界大百科事典内の池田恒興の言及

【池田氏】より

…(1)南北朝・室町・戦国期の摂津の国人。橘諸兄の後裔とする伝承があるが不詳。1363年(正平18∥貞治2)の幕府文書に摂津守護赤松光範の被官として池田親政とあるのが初見。南北朝中期,守護より加茂庄(現,兵庫県川西市)の半済地をあてがわれ,また垂水西牧小曾禰村(現,豊中市)の番頭にも名がみえる。室町期には守護細川氏の有力被官となり,伊丹,吹田両氏と並ぶ摂津屈指の土豪に成長した。加茂,垂水のほか,細川庄,桜井郷など各荘園の代官を兼ね,給分を資本に高利貸も行って,応仁の乱ころは年収1万2000貫,〈富貴無双〉とうたわれた。…

【兵庫】より

…その範囲は兵庫区,北区を中心に長田区の一部を含む地域らしい。【石田 善人】 織田信長のもとで摂津の大名となった荒木村重が信長に反して没落したあと,1580年(天正8)村重討伐に功があった池田恒興に摂津の〈諸所多く〉とともに,兵庫津が与えられた。恒興は兵庫の地に一城を構え,城の周りに溝渠(こうきよ)を,町の外郭に惣構の都賀堤(とがのつつみ)を築いた。…

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