デジタル大辞泉
「池西言水」の意味・読み・例文・類語
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いけにし‐ごんすい【池西言水】
- 江戸初期の俳人。本名則好。奈良の人。松江重頼の門人で、談林風から蕉風に近づいた。「木枯の果はありけり海の音」の句により「木枯の言水」と呼ばれた。主著に「江戸新道」「東日記」。慶安三~享保七年(一六五〇‐一七二二)
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
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池西言水
没年:享保7.9.24(1722.11.2)
生年:慶安3(1650)
江戸前期の俳人。奈良の人。俳諧は松江重頼門といわれているが,重頼の選集に名はみえない。20歳代の後半ごろ江戸へ出て談林派の俳人として活躍,江戸俳壇に確固たる地位を築く。当時の彼は時代の新風を追い求める先鋭的な俳人であった。天和2(1682)年の春,33歳で京都に移住したのち,北越,奥羽,九州などに行脚し,京都定住後は京都俳壇を代表する俳人のひとりとして活躍した。俳人評判記の『花見車』は彼を太夫の位にランクし,「目はしのきいた君也」と評しているが,この評の通り,時流には敏感で,元禄年間(1688~1704)に流行し始めた前句付,笠付などの雑俳にも手を染めている。「木枯しの果はありけり海の音」という句が評判になり,「木枯しの言水」と呼ばれるようになったエピソードは有名である。<参考文献>荻野清『元禄名家句集』,宇城由文「池西言水年譜」(『連歌俳諧研究』62号)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
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池西言水
いけにしごんすい
[生]慶安3(1650).奈良
[没]享保7(1722).9.24. 京都
江戸時代中期の俳人。通称,八郎兵衛。初号,則武。別号,紫藤軒,洛下童,兼志。延宝4/5 (1676/7) 年から七,八年間江戸にあって,俳諧『江戸蛇之酢 (じゃのすし) 』 (79) ,『江戸弁慶』 (80) ,『東 (あずま) 日記』 (81) を編み,その後,北越,奥羽,西国,九州を遍歴,貞享1/2 (84/5) 年以後京都に定住,『京日記』 (87) ,『前後園』 (89) ,『都曲 (みやこぶり) 』 (90) などを編んだ。句は感覚的,官能的,唯美的で,芭蕉らとともに俳壇の革新に貢献。一方,雑俳点者としても活躍した。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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池西言水 いけにし-ごんすい
1650-1722 江戸時代前期-中期の俳人。
慶安3年生まれ。江戸で松尾芭蕉(ばしょう),椎本才麿(しいのもと-さいまろ)らと交遊。談林全盛期に名をあげ,のち蕉風に。天和(てんな)2年以降は京都で活躍。享保(きょうほう)7年9月24日死去。73歳。大和(奈良県)出身。名は則好。通称は八郎兵衛。別号に兼志,紫藤軒。編著に「江戸新道」「京日記」など。
【格言など】木枯の果てはありけり海の音(「都曲」)
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
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出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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世界大百科事典(旧版)内の池西言水の言及
【東日記】より
…俳諧撰集。池西[言水](ごんすい)編。1681年(延宝9)刊。…
【言水】より
…江戸前期の俳人。重頼門。姓は池西,名は則好。通称は八郎兵衛。別号は兼志,紫藤軒,風下堂(鳳下堂),洛下堂。奈良の人。祖父良以が和歌,父柳以が俳諧をよくした影響からか,12歳のころから俳諧に親しみ,16歳には早くも法体して俳事に専念したと伝えるが,句の初出は1672年(寛文12)刊《続大和順礼集》で,23歳であった。76年(延宝4)ごろから江戸にいて,芭蕉,才麿,幽山ら気鋭の若手俳人たちと新風を競い,78年から毎年,《江戸新道(しんみち)》《江戸蛇之酢(じやのすし)》《江戸弁慶》《[東日記](あずまのにき)》と出しつづけ,過渡期の俳壇に主導的役割を果たし,[蕉風俳諧]育成の一翼をになった。…
※「池西言水」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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