以心崇伝
いしんすうでん
(1569―1633)
江戸初期の臨済宗の僧。以心は字(あざな)。普通、金地院(こんちいん)崇伝という。生前に円照本光国師号を受ける。1573年(天正1)室町幕府滅亡に際し父一色秀勝(いっしきひでかつ)と死別、南禅寺の玄圃霊三(げんぽれいさん)(1535―1608)の下で出家。26歳で住職資格を得て諸寺を歴住、1605年(慶長10)南禅寺270世住持として金地院に住した。1608年西笑承兌(さいしょうしょうたい/しょうだ)の後任で、駿府(すんぷ)(静岡県)の徳川家康の下で外交文書の書記役となるが、その後しだいに頭角を現し、幕政の枢機にあずかった。伴天連(バテレン)追放令(宣教師追放令)をはじめ、寺院法度(はっと)、公家(くげ)諸法度などにも関係し、大坂城攻撃の端緒となった京都方広寺大仏殿の鐘銘問題も崇伝の考えによるという。紫衣(しえ)事件でも厳科を主張し、一般の不評を買って「大欲山気根院僭上寺悪国師(だいよくざんきこんいんせんじょうじあくこくし)」とあだ名され、沢庵(たくあん)からも「天魔外道(てんまげどう)」と評されたが、初期幕政に辣腕(らつわん)を振るった功績は大きく、黒衣(こくえ)の宰相の名にふさわしいものがあった。著書に『異国日記』『本光国師日記』『本光国師法語』などがある。
[船岡 誠 2017年5月19日]
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以心崇伝 (いしんすうでん)
生没年:1569-1633(永禄12-寛永10)
近世初期の僧。臨済宗。円照本光国師。金地院崇伝,伝長老ともいわれる。足利義輝の近臣一色藤長の孫。足利氏滅亡のとき父秀勝に死別し,京都南禅寺に入って玄圃霊三に師事する。かたわら醍醐三宝院に学び,相国寺の西笑承兌にも教えを受け,のち南禅寺金地院の靖叔徳林についてその法嗣となった。1605年(慶長10)2月建長寺の,同3月南禅寺の住持となり,金地院に住んで応仁の乱による焼失以来荒廃した伽藍の復興に努めた。08年,駿府に赴いて徳川家康に面謁し,以降幕府の外交文書の起草に従事。10年,駿府に金地院を開いて住し,12年8月以後は板倉勝重とともに諸寺院の取締り,訴訟のことを管掌した。また家康の命で朝廷,公家,寺院から内外の古典を収集し,慶長末年から元和初年にかけての朝廷,寺院,武家などを対象とした諸法度の起草に参画した。家康の死後は江戸に移って18年(元和4),江戸金地院を建立。翌年9月,禅宗寺院住持の任免を左右する僧禄に任じられた。26年,国師号を賜る。翌年の紫衣(しえ)事件では沢庵らの厳罰を主張。後世に〈黒衣の宰相〉と呼ばれ策謀家と受けとられがちであるが,実態は五山僧としての内外古典の学殖によって家康の側近に登用された実務家である。室町幕府においても外交文書の起草は五山僧の仕事であったし,文字によって伝えられた故実・伝統にのっとりながら政権の基礎を固めようとしていた家康にとって,その意図を法制に表現するには崇伝の才能は不可欠だった。家康の死後の崇伝は秀忠の側近から遠ざけられ,その日記《本光国師日記》にも,幕政のことよりも諸権門からの依頼で行った易占や書画の鑑定の記事が目だつ。日記のほか著作に《本光国師法語》《異国日記》がある。
執筆者:高木 昭作
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以心崇伝【いしんすうでん】
江戸初期の臨済僧。金地(こんち)院崇伝とも。京都の人。幼時から南禅(なんぜん)寺に入り,1605年住持となる。徳川家康に召され,外交関係の事務一切を管轄し,寺院法度(はっと),禁中並公家諸法度なども起草した。また紫衣(しえ)事件では沢庵(たくあん)らの厳罰を主張して流罪(るざい)にさせ,〈黒衣(こくえ)の宰相〉と称されたが,家康の死後は勢力を失った。本光国師と諡号(しごう)され,《本光国師日記》《異国日記》などの著作がある。
→関連項目駿河版|伴天連追放令
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以心崇伝 いしん-すうでん
1569-1633 織豊-江戸時代前期の僧。
永禄(えいろく)12年生まれ。臨済(りんざい)宗。京都南禅寺金地(こんち)院の靖叔徳林の法をつぎ,慶長10年(1605)同寺住持。徳川家康につかえ,外交事務,方広寺鐘銘事件や寺社行政,諸法度の起草,キリスト教の禁圧,紫衣(しえ)事件に関与し,幕府の基礎づくりに貢献。黒衣(こくえ)の宰相といわれた。江戸金地院の開山。寛永10年1月20日死去。65歳。俗姓は一色(いっしき)。通称は金地院崇伝。諡号(しごう)は円照本光国師。著作に「異国日記」「本光国師語録」。
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以心崇伝
没年:寛永10.1.20(1633.2.28)
生年:永禄12(1569)
江戸前期の臨済宗の僧。室町幕府に仕えた一色秀勝の子。幼くして南禅寺の玄圃霊三にあずけられ,靖叔徳林の法を嗣ぎ慶長10(1605)年南禅寺住持となる。徳川家康に重用され外交,寺社統制に力をふるい,京都と江戸の金地院を往反し僧録として五山以下の禅院を統轄した。豊臣秀頼を攻める大坂冬の陣(1614)の発端となった方広寺鐘銘事件,朝廷と寺社のかかわりを問題とした紫衣事件などでは幕府側にたち強硬策を唱えた。日記として『本光国師日記』,外交にかかわる『異国日記』がある。
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以心崇伝
いしんすうでん
1569~1633.1.20
金地院(こんちいん)崇伝とも。江戸初期の臨済宗の禅僧。諱は崇伝,字は以心。紀伊の一色氏の出身。幼くして京都南禅寺の玄圃霊三(げんぽれいざん)について修行し,靖叔徳林(せいしゅくとくりん)の法をつぐ。1605年(慶長10)同寺の住持となる。08年以来,徳川家康の諮問をうけ,公家諸法度・武家諸法度・外交文書の作成,寺院統制,キリスト教禁制など,幕政の中枢に関与し黒衣の宰相といわれた。
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世界大百科事典(旧版)内の以心崇伝の言及
【異国御朱印帳】より
…近世初頭,江戸幕府が南洋諸地域に渡航する日本船に貿易統制のために発給した朱印状の控帳。原本は以心崇伝の手写になり,京都南禅寺金地院蔵。重要文化財。…
【異国日記】より
…近世初期に,外国あて書簡の執筆,朱印状の発給に当たった禅僧が,その職務を記した記録。原本は京都市南禅寺金地院にあり,1712年(正徳2)新井白石が発見した。筆者は豊光寺承兌,円光寺元佶,金地院崇伝で,中でも崇伝の記録が主要な部分を占める。外国との往復書簡を記すだけでなく,執筆の事情をも記しており,外交史の重要な文献である。このうち西洋諸国関係の記事を抜粋し,注を加えたものは,《異国日記抄》として異国叢書に収められる。…
【金地院】より
…京都市左京区にある臨済宗南禅寺の塔頭(たつちゆう)。徳川家康の側近として幕府の政治の枢機に列した黒衣(こくえ)の宰相,[以心崇伝]が住んだ寺である。当寺は,古く室町時代,南禅寺の住持だった大業徳基によって洛北の鷹峯に開創されたというが,そののち衰微し,崇伝が南禅寺の住持となった1605年(慶長10)ごろに,崇伝によって現地に移され復興した。…
【寺院法度】より
…このうち,1614年(慶長19)までのものは個別寺院あてのものが多かったが,15‐16年に各宗派本山に下されたことによって,従来あいまいであった宗派,本山を確定することになった。家康の政治顧問であった以心(金地院)崇伝がこれらの制定に関与している。その内容は宗学奨励,本寺末寺関係の確定,僧侶階位や寺格の厳正,私寺建立禁止などが主要なものである。…
【紫衣事件】より
…1627年(寛永4)7月,以心崇伝や老中土井利勝らは,大徳寺・妙心寺の入院・出世が勅許紫衣之法度(1613年6月)や[禁中並公家諸法度](1615年7月)に反してみだりになっているととがめた。しかるに翌春,大徳寺の沢庵宗彭,玉室宗珀,江月宗玩や妙心寺単伝士印らは抗議書を所司代板倉重宗に提出したため,江戸幕府は態度を硬化させ,29年7月,あくまで抵抗した沢庵を出羽国上山に,玉室を陸奥国棚倉に,単伝を出羽国由利に配流し,さらに,1615年(元和1)以来幕府の許可なく着した紫衣を剝奪した。…
【寺社奉行】より
…【福田 豊彦】
【近世】
江戸幕府の三奉行の一つで,全国の寺社と寺社領の管理や宗教統制をつかさどった。1612年(慶長17)徳川家康は[以心崇伝]と板倉勝重(所司代)の2人に寺社行政を担うように命じたが,それ以前から崇伝はその任に当たっていたことが彼の自著《本光国師日記》によって判明する。個人によって体現されていた寺院行政も,個人の死後は職制として幕府機構の中に設定された。…
【駿河版】より
…徳川家康が駿府(すんぷ)に隠退してから[以心崇伝](いしんすうでん),林道春に命じて開版させた[古活字版](こかつじばん)。家康は江戸幕府成立後その政策に文治主義をとり入れて,学問を奨励し,また多くの開版事業を行った。…
【武家諸法度】より
…天皇,公家に対する禁中並公家諸法度,寺家に対する諸宗本山本寺諸法度(寺院法度)と並んで,幕府による支配身分統制の基本法であった。1615年(元和1)大坂落城後,徳川家康は[以心崇伝]らに命じて法度草案を作らせ,検討ののち7月7日将軍秀忠のいた伏見城に諸大名を集め,崇伝に朗読させ公布した。漢文体で13ヵ条より成り,〈文武弓馬の道もっぱら相嗜むべき事〉をはじめとして,品行を正し,科人(とがにん)を隠さず,反逆・殺害人の追放,他国者の禁止,居城修理の申告を求め,私婚禁止,朝廷への参勤作法,衣服と乗輿(じようよ)の制,倹約,国主(こくしゆ)の人選について規定し,各条に注釈を付している。…
【本光国師日記】より
…臨済僧[以心崇伝](いしんすうでん)(本光国師)の日記。47冊。…
※「以心崇伝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」