紫衣事件(読み)シエジケン

デジタル大辞泉 「紫衣事件」の意味・読み・例文・類語

しえ‐じけん【紫衣事件】

寛永4年(1627)朝廷に対する江戸幕府優越を示した事件後水尾天皇大徳寺妙心寺の僧に与えた紫衣着用勅許幕府が無効であるとし、これに抗議した大徳寺の沢庵らを処罰した。

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精選版 日本国語大辞典 「紫衣事件」の意味・読み・例文・類語

しえ‐じけん【紫衣事件】

  1. 寛永四年(一六二七)、天皇が幕府の法度を無視して出していた大徳寺、妙心寺などの僧に対する紫衣着用勅許の綸旨を、江戸幕府が無効であるとした事件。朝廷に対する幕府の優越を示した。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「紫衣事件」の意味・わかりやすい解説

紫衣事件
しえじけん

江戸初期、幕府の朝廷統制圧迫の政策を示す一事件。紫衣は紫色法衣袈裟(けさ)をいい、もともと宗派を問わず高徳僧尼が朝廷から賜ったもので、早くから行われ、その尊さを表すと同時に朝廷にとっては収入源の一つでもあった。幕府は寺院僧侶(そうりょ)圧迫の手段として1613年(慶長18)「勅許紫衣竝(ならび)に山城(やましろ)大徳寺、妙心寺等諸寺入院の法度(はっと)」を定め、さらに2年後には「禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)」(禁中并公家中諸法度)を定めて紫衣や上人(しょうにん)号をやたらに授けることを戒めているが、後水尾(ごみずのお)天皇は、これまでの慣例どおり、幕府に相談なく十数人の僧侶に紫衣着用の勅許を与えてきた。これを知った幕府は、事前に勅許の相談のなかったことを法度違反とばかり多くの勅許状の無効を宣言し、朝廷をも抑えて実力を示そうとした。この紛争が紫衣勅許事件である。大徳寺の宗彭(そうほう)(沢庵(たくあん))らは抗議して服従せず、1629年(寛永6)配流の刑に処された。これは江戸初期の朝廷と幕府の不和確執の最大のものといわれる。これによって後水尾天皇に退位を決意させることになったと考えられてきたほどの深刻な打撃を与えた朝幕間の大きな対立であった。

[小野信二]

『小野信二著「幕府と天皇」(『岩波講座 日本歴史 近世2』所収・1963・岩波書店)』

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百科事典マイペディア 「紫衣事件」の意味・わかりやすい解説

紫衣事件【しえじけん】

元来,紫衣(高僧が着用する紫色の法衣)の勅許は朝廷の権限であったが,1613年徳川家康は〈紫衣着用の際はあらかじめ知らせること〉という法度(はっと)を出した。1626年に後水尾天皇大徳寺妙心寺等の僧に着用を許可,幕府は翌年その勅許状を無効とし,さらにこの処置に抗議した大徳寺の僧沢庵らを流罪にした(1629年)。これにより後水尾天皇は退位。幕府は禁中並公家諸法度などの幕府法度と天皇倫旨とが抵触する状況を打開して幕府法度の上位を明らかにし,また朝廷に住持職のあった浄土宗・臨済宗の寺院のうち,統制を加えていなかった臨済宗の大徳寺・妙心寺に統制を加える意図があったと思われる。
→関連項目以心崇伝

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改訂新版 世界大百科事典 「紫衣事件」の意味・わかりやすい解説

紫衣事件 (しえじけん)

1627年(寛永4)7月,以心崇伝や老中土井利勝らは,大徳寺・妙心寺の入院・出世が勅許紫衣之法度(1613年6月)や禁中並公家諸法度(1615年7月)に反してみだりになっているととがめた。しかるに翌春,大徳寺の沢庵宗彭,玉室宗珀,江月宗玩や妙心寺単伝士印らは抗議書を所司代板倉重宗に提出したため,江戸幕府は態度を硬化させ,29年7月,あくまで抵抗した沢庵を出羽国上山に,玉室を陸奥国棚倉に,単伝を出羽国由利に配流し,さらに,1615年(元和1)以来幕府の許可なく着した紫衣を剝奪した。以上の一連の事件を紫衣事件という。沢庵らは当時茶の湯を通して朝廷,幕府と親交があったにもかかわらず,幕府があえて紫衣勅許を問題にした背景には,ひとつには,禁中並公家諸法度などの幕府法度と天皇綸旨とが抵触している状態を打開し,幕府法度の上位を明確に示す必要があったことである。ふたつには,朝廷に住持職のあった寺院のうち,浄土宗寺院の統制を終えた幕府が,残りの臨済宗大徳寺,妙心寺に統制を加える必要があったことが考えられる。
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山川 日本史小辞典 改訂新版 「紫衣事件」の解説

紫衣事件
しえじけん

江戸前期,幕府の宗教統制に抵抗した京都の禅僧が配流された事件。1613年(慶長18)の勅許紫衣法度以来,幕府は宗教統制を本格化したが,朝廷がなお幕府に許可なく紫衣着用の勅許を続行したため,27年(寛永4)紫衣勅許の取消しを含む5カ条の制禁を発布。大徳・妙心両寺で強硬な反対がおこり,翌年沢庵宗彭(たくあんそうほう)らが京都所司代に抗議書を提出。その後幕府が妥協策をとって大勢は収まったが,沢庵らは承服せず,29年抗議のため江戸へ下向。幕府は妙心寺の東源慧等・単伝士印(たんでんしいん),大徳寺の沢庵・玉室宗珀(ぎょくしつそうはく)を陸奥・出羽の両国へ配流した。この事件は後水尾(ごみずのお)天皇の譲位に多大の影響を与えた。なお41年幕府は紫衣勅許の制限を緩和した。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「紫衣事件」の意味・わかりやすい解説

紫衣事件
しえじけん

江戸時代,朝廷が大徳寺や妙心寺の僧侶に出した紫衣勅許を江戸幕府が無効とした事件。幕府は慶長 18 (1613) 年紫衣着用に関する法令を出していたが,紫衣着用の許可は古くから朝廷が行なってきたことであり,この時期には勅許による収入が朝廷の重要な財源となっていた。宗教統制,寺院管理を目指していた幕府は,後水尾天皇が僧侶十数人に対して出していた紫衣着用の勅許を寛永4 (27) 年無効として着用を禁じた。後水尾天皇はこれによって退位を決意するほどの打撃を受け,幕府の政策を批判した大徳寺の沢庵宗彭 (たくあんそうほう) らは処罰された。幕府が朝廷を抑圧し,みずからの権力の優越を示そうとした事件。

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旺文社日本史事典 三訂版 「紫衣事件」の解説

紫衣事件
しえじけん

江戸初期,幕府が後水尾天皇の高僧への紫衣勅許を無効とした事件
1627年,幕府は,朝廷側を抑えようとして,元和('15〜24)以後に与えられた紫衣着用の勅許を無効とし,これに抗議した大徳寺の沢庵らを流罪とした。天皇は幕府の同意を求めず譲位で抗議し,女帝明正天皇が即位した('29)。これは '15年制定の禁中並公家諸法度に,紫衣勅許は事前に幕府の許可が必要であるということによったもので,これにより朝廷に対する幕府権力の優越性が明確にされた。

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