河鍋暁斎(読み)カワナベキョウサイ

デジタル大辞泉 「河鍋暁斎」の意味・読み・例文・類語

かわなべ‐きょうさい〔かはなべケウサイ〕【河鍋暁斎】

[1831~1889]幕末・明治前期の日本画家。下総しもうさの人。号、洞郁・狂斎など。狩野派浮世絵を学び、両者を取り入れた鋭い写実と特異な画風特色を示した。

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精選版 日本国語大辞典 「河鍋暁斎」の意味・読み・例文・類語

かわなべ‐きょうさい【河鍋暁斎】

  1. 幕末・明治前期の日本画家。下総の人。号は洞都、狂斎など。狩野派と浮世絵を取り入れた鋭い写実と特異な画風を示した。天保二~明治二二年(一八三一‐八九

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「河鍋暁斎」の意味・わかりやすい解説

河鍋暁斎(かわなべきょうさい)
かわなべきょうさい
(1831―1889)

日本画家。下総(しもうさ)(茨城県)古河(こが)藩士河鍋喜右衛門の次男として生まれる。幼名周三郎。俗称洞郁。生後まもなく、父が幕府定火消同心甲斐(かい)家の株を買って同家を継いだために、一家で江戸に出る。幼くして浮世絵師歌川国芳(うたがわくによし)に入門した。1840年(天保11)狩野(かのう)派の絵師前村洞和、翌年その師狩野洞白陳信に師事し、1849年(嘉永2)に師から号洞郁、名陳之(のりゆき)を与えられた。一時入婿したが離縁し、のちに鈴木其一(きいつ)の次女と結婚してふたたび河鍋姓に戻り、狂斎と号した。おもに狩野派と浮世絵を折衷した画風の作品を描いたが、1869年(明治2)官を誹謗(ひぼう)した風刺画のために投獄され、以後暁斎と改めた。別号に如空、酒乱斎、惺々狂斎などがある。なお暁斎には幽霊や妖怪(ようかい)を描いた作品もあるが、幕末から明治前期にかけての動乱した社会に対する厳しい観察を通して、その特異な時代感覚を表現した作品が多い。著書に『暁斎画談』がある。

[玉蟲玲子]

『佐藤道信著『日本の美術 河鍋暁斎と菊池容斎』(1993・至文堂)』『芳賀徹編『河鍋暁斎画集』(1994・六耀社)』『大野七三著『河鍋暁斎』(1994・日本図書刊行会)』『木下直之著『河鍋暁斎』(1996・新潮日本美術文庫)』『及川茂著『最後の浮世絵師』(1998・日本放送出版協会)』『京極夏彦文、多田克己編『暁斎妖怪百景』(1998・図書刊行会)』



河鍋暁斎(かわなべぎょうさい)
かわなべぎょうさい

「かわなべきょうさい」の誤読

[編集部]

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改訂新版 世界大百科事典 「河鍋暁斎」の意味・わかりやすい解説

河鍋暁斎 (かわなべぎょうさい)
生没年:1831-89(天保2-明治22)

幕末・明治前期の画家。下総国古河(現,茨城県古河市)の藩士の家に生まれる。幼時より画才を発揮し,7歳にして歌川国芳の門に入り,浮世絵を修業。10歳で狩野派の前村洞和に学び,続いて狩野洞白に学ぶ。しかし,流派に縛られることを嫌い,狩野派から早々に独立する。最初は貧窮していたが,葛飾北斎の画風に影響されて,戯画の世界にテーマを見いだし,狂斎と号して人気を得た。豪放磊落(らいらく),酒を好んでつねに離さず,また奇行をもって知られる。1870年(明治3)10月,上野の不忍池弁財天境内の料亭の書画会で,酔いにまかせて描いた戯画が,政府要人を風刺したものだと密告されて3ヵ月間拘留される。放免後,暁斎と改名する。71年から80年にかけて,仮名垣魯文(かながきろぶん),服部応賀などの著作の挿絵を盛んに描く。1874年,魯文と組んで日本で最初の漫画雑誌である《絵新聞日本地(につぽんち)》を創刊。山水花鳥画,風俗画,妖怪画から美人画にいたるまで描き,多才かつ多作で,明治10年代には〈北斎漫画〉風の戯画絵本を多数版行した。
執筆者:

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「河鍋暁斎」の意味・わかりやすい解説

河鍋暁斎
かわなべきょうさい

[生]天保2 (1831).4.7. 下総古河
[没]1889.4.26. 東京
江戸時代後期から明治時代前期の日本画家。幼名周三郎。字は陳之(のりゆき)。画号は惺々狂斎,画鬼,酒乱斎など。7歳で歌川国芳浮世絵を学び,その後狩野派の前村洞和,洞和の師洞白陳信に師事した。嘉永2(1849)年洞郁陳之の名を受けた。安政4(1857)年独立。同 5年頃から狂斎と号し,狂画,風刺画などを描いた。明治3(1870)年,書画会で描いた戯画が原因で投獄され,出獄後に号を暁斎と改めた。1881年第2回内国勧業博覧会に出品した『枯木寒鴉図』が妙技2等賞を受賞した。狩野派を土台に浮世絵を交え,高い写実力で知られる。奇行・奇談に富んだ酒豪家としても知られた。代表作は『地獄極楽図』(1868以前,東京国立博物館),『花鳥図』(1881,東京国立博物館),『山姥図』(1884頃,東京国立博物館)など。

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百科事典マイペディア 「河鍋暁斎」の意味・わかりやすい解説

河鍋暁斎【かわなべきょうさい】

幕末・明治初期の日本画家。名は周三郎。下総(しもうさ)古河生れ。7歳で歌川国芳に入門,のち狩野派の前村洞和,狩野洞白に学び,狩野派に浮世絵を加味した独創的な画風を展開した。闊達(かったつ)な筆致による戯画でも知られる。埼玉県蕨市に河鍋暁斎記念美術館がある。
→関連項目小林清親

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朝日日本歴史人物事典 「河鍋暁斎」の解説

河鍋暁斎

没年:明治22.4.26(1889)
生年:天保2.4.7(1831.5.18)
幕末明治期の浮世絵師,日本画家。下総国古河(茨城県)生まれ。名は洞郁,字陳之。別号に狂斎,周麿,惺々,如空など。住居は下総古河,江戸お茶の水・下谷根岸など多数。絵は幼時歌川国芳に浮世絵を学んだが,のち狩野派画家前村洞和,さらに狩野洞白に学び,嘉永2(1849)年に職業絵師としての道を歩みはじめる。本絵師としてはしばらく不遇な時代を過ごすが,この間には蒔絵の下絵描きや錦絵などを手がけていた。慶応(1865~68)から明治初頭にかけて,寺社の絵馬を多数制作するころから次第に地位を確立し,明治4(1871)年暁斎と改号後は肉筆画を中心に盛んに作画活動を展開,写実にすぐれた卑俗な画風で一世を風靡した。

(内藤正人)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「河鍋暁斎」の解説

河鍋暁斎 かわなべ-きょうさい

1831-1889 幕末-明治時代の日本画家。
天保(てんぽう)2年4月7日生まれ。歌川国芳に入門,のち狩野派の前村洞和,狩野洞白にまなぶ。明治14年内国勧業博覧会で「枯木寒鴉」が受賞。狩野派に浮世絵風をまじえた画風を特色とした。明治22年4月26日死去。59歳。下総(しもうさ)古河(茨城県)出身。名は洞郁。字(あざな)は陳之。通称は周三郎。別号に周麿,狂斎。作品に「暁斎漫画」「地獄極楽図」。

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