法典論争(読み)ほうてんろんそう

改訂新版 世界大百科事典 「法典論争」の意味・わかりやすい解説

法典論争 (ほうてんろんそう)

法典の制定ないしは施行の可否をめぐる論争で,法典争議ともいう。一般的には,歴史的に著名な19世紀初頭のドイツおよび19世紀末の日本における法典論争をさす。

1813年,普墺同盟軍がフランス軍を撃破してからわずか2ヵ月後の12月に,著名な政論家レーベルクA.W.Rehbergは《ナポレオン法典とそのドイツへの導入Ueber den Code Napoléon und dessen Einführung in Deutschland》なる論文を発表し,〈フランス革命の理念〉と〈いかなる立法〉にも反対する見解を公表した。結果的に,これは当時すでにドイツの一部に導入されていたナポレオン法典の排除と旧制度(アンシャン・レジーム)の復活の主張につながるものであった。これに対しレーベルクの主張に真っ向から反対し,近代市民革命の成果を高く評価しつつ,長期間分断されてきたドイツのために新しい法典を制定することを説く匿名の論文が翌1814年初頭にハイデルベルクで公刊されたのである。その叙述様式,公刊地,思想からして,その論文がハイデルベルク大学教授のティボーA.F.J.Thibautの手になるものであることは明らかであったが,同年6月,彼はより詳しくその論旨を展開した《ドイツ一般民法典の必要性についてUeber die Notwendigkeit eines allgemeinen bürgerlichen Rechts für Deutschland》なる論文を実名で発表するに至った。これにはただちに反響があり,当時の段階では,さしあたりオーストリア一般民法典を全ドイツ的に採用すべきだとするイェーナ大学のシュミードK.E.Schmidtの《ドイツの再生Teutschlands Wiedergeburt》がまず出現したが,のちのちまでの影響を考えると,その最大のものは《立法と法学に対する現代の使命Vom Beruf unserer Zeit für Gesetzgebung und Rechtswissenschaft》と題するサビニーF.K.v.Savignyの論稿であった。当時サビニーは新しい法学=歴史法学を構築するために《中世ローマ法史》の執筆準備に没頭していたが,急きょその予定を変更して,その著の序文に当たる部分に大幅な加筆を加えて発表したのがこれであった。彼は,レーベルク,ティボー,シュミードのおのおのの提案に反対し,〈旧制度の復活〉でも〈新法典の編纂〉でもなく,〈法学による全ドイツの法的統一の達成〉を説いたのである。後年彼自身回顧していることであるが,当時のドイツには前述の2法典に加えてプロイセン一般ラント法といった法典が分立しており,しかも当時の政治情勢からして,〈ウィーン会議〉でそれが改善される見込みはほとんどなかった。したがって,そうした状況の下で全ドイツの法的統一を達成するためには普通法Jus Commune以来の伝統たる〈学識法〉によることが最も現実的であった。事実,復古主義の全盛下であったにもかかわらず,サビニーの樹立した歴史法学は統一的な市民法学を生み出し,やがてその延長線上にドイツ民法典が成立するに至ったのである。従来法典論争はしばしば〈ティボーとサビニーの間の論争〉に単純化され,しかもそれは新法典の制定に対する〈賛否〉をめぐる問題へと歪小化されてしまうことが多かったが,統一ドイツ法の形成という点では,実は両者は完全に一致していたのである。
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日本では,1890年に公布された民法典および商法典の実施可否をめぐって,延期派と断行派に国論を二分するはげしい論争が起こった。この法典論争は,個別に〈商法典論争〉あるいは〈民法典論争〉とも呼ばれるが,論争の焦点が民法典の実施可否に置かれていたこともあって一般に〈民法典論争〉と通称されることもある。1880年以来本格的な編纂が開始された民法は,90年4月にフランス人ボアソナードの起草になる財産法の部分が,同年10月に日本人委員の起草になる身分法の部分が,いずれも元老院枢密院の審議,修正を経て公布され,ともに93年1月1日から施行されることになった(旧民法)。この間,1881年ドイツ人レースラーを起草者として編纂が開始された商法は,90年4月に全編公布され,翌91年1月1日から施行されることになった(旧商法)。

 一般に民法・商法は,資本主義生産関係を規制する私法の基本法として国家法体系の成立に欠くことのできないものであるが,条約改正交渉との関連や帝国議会開設前の編纂完了を目ざして制定が急がれた結果,各機関での審議が十分に尽くされなかった。このため,従来の民俗慣習に対する顧慮が不十分であるとの批判をはじめ,民法と商法に統一性を欠くこと,さらに条文上の技術的欠陥が存することなどが指摘され,とくに民法人事編は,日本固有の淳風美俗たる家族制度を破壊するものであるなどの理由をあげて,両法典の実施断行に強い批判や反対の声があがった。89年5月,帝国大学法科大学の卒業生で組織するイギリス法学派の法学士会が,《法典編纂ニ関スル意見書》を発表し,法典編纂の速成急施を改め慎重を期すべきことを主張すると,これが導火線となって法律家の間で法典の実施可否をめぐる論争がくり広げられた。折しも,実業界では商法の実施可否について延期を主張する東京商工会と断行を主張する大阪商法会議所などを中心に論争が起こり,90年11月に開かれた第1帝国議会に実業界から《商法実施延期請願書》が提出されると,これをうけて衆議院貴族院両議院は,91年1月1日から施行予定の商法も民法と同じく93年1月1日から施行することに決定した。これをきっかけに延期派は勢いをえて,論争は一段と激しさを増すことになったが,こうした状況の中で,延期派に属する穂積八束は《民法出デテ忠孝亡ブ》(《法学新報》第5号)と題する論文を発表し,日本固有の家父長制的家族制度を美俗ととらえ,近代的家族法原理を批判した。この論文は〈群集心理を支配するに偉大なる効力〉(穂積陳重《法窓夜話》)を発揮し,論争に多大の影響を与えることになった。民法・商法の施行が翌年に迫った92年に入ると論争は最高潮に達し,延期・断行両派の論潮は激越を極めていった。江木衷,穂積八束ら法律家11人の名をもって《法学新報》第14号に社説として掲載された《法典実施延期意見》は,この時期の延期派を代表する論文で,家父長制的イデオロギーに基づいて旧民法の市民法思想ないし個人主義思想を批判し,また資本主義に内在する諸矛盾をとらえて資本による自由競争原理に危惧の念を表明した。他方断行派は,岸本辰雄,磯部四郎らの起草になる《法典実施断行ノ意見》(《法治協会雑誌》号外)を発表し,フランス法の知識を背景とした市民法理論をもって反論したが,すでに憲法を頂点とする天皇制国家の基本原則が定まり,急速に形成されつつある日本資本主義の矛盾が顕在化しつつあったこの時期の状況は,延期派の論調にとって有利に作用することになった。激烈なる両派の応酬の最中,論争は帝国議会において政治的に決着づけられることになった。この年5月に開かれた第3特別議会において貴族院議員村田保は,民法・商法両法典を〈其ノ修正ヲ行フタメ明治二九年一二月三一日マデ其施行ヲ延期〉する旨の法律案を貴族院に提出した。同年11月24日〈民法商法延期法〉(略称)が公布され,ここに法典論争は延期派の勝利という形で終結をみることになった。その後両法典は,延期派・断行派を含む法学者,行政官,司法官,弁護士,実業家によって構成された法典調査会(93年3月設置)で審議・修正され,民法は98年7月16日から,商法は99年6月16日から施行された。以上の法典論争の原因・性格については,自然法派(フランス法派)対歴史派(イギリス法派)の学説の差異に原因する論争で,19世紀初頭のドイツにおけるティボー対サビニーの法典論争とその性質を同じくするものとの見解をはじめ,日本資本主義の矛盾に基礎づけられた官僚法学内部における官僚的ブルジョア自由主義派対絶対主義官僚法学の争いとするもの,さらに功利的な学派の対立に政治的立場の相違が加わったとするものなどの諸見解が提出されているが,今後は日本資本主義と権力の性格とに関連づけた総合的視角からの究明が必要とされる。いずれにしても,日本の近代法体制は,国民の法イデオロギーの統合化に重要な役割を果たしたこの法典論争を経たのちはじめて確立することができた。
法典編纂
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「法典論争」の意味・わかりやすい解説

法典論争
ほうてんろんそう

法典の制定ないしは施行の可否をめぐる論争で、一般的には、19世紀初頭のドイツおよび19世紀末の日本における法典論争をさす。日本では、1890年(明治23)公布の民法・商法両法典の実施可否をめぐって、権力内部はもとより、延期派、断行派に国論を二分して激しい論争が繰り広げられた。この法典論争は、個別に「商法典論争」あるいは「民法典論争」ともよばれ、また論争の焦点が民法人事編に置かれたこともあって、一般に「民法典論争」と通称されることもある。論争のおきた背景としては、国会開設前に諸法典の編纂(へんさん)を完了しようとする明治政府の意図と、条約改正交渉との密接な関連から、民法・商法両法典の編纂が拙速的に行われ、草案の審議が十分に尽くされなかったこと、さらにまた、両法典公布の前年には、プロイセン憲法の影響を受けた保守的性格をもつ大日本帝国憲法が制定され、これが法典編纂の基準として働くようになったことがあげられる。1889年、帝国大学法科大学の卒業生で組織されたイギリス法学派の法学士会が、「法典編纂ニ関スル意見書」を発表して法典編纂の慎重論を唱えると、これをきっかけにイギリス法学派とフランス法学派との間で激しい論戦が引き起こされた。草案の起草が外国人ボアソナードの手になったことなどから、日本の民俗慣習への顧慮が不十分であること、条文が冗長でかつ各法典間に統一を欠く点があることなどが論争の焦点となったが、とりわけ民法人事編は、日本固有の醇風(じゅんぷう)美俗たる家族制度を破壊するとして問題とされた。結局、1892年の第三帝国議会で、民法・商法両法典は、その修正を行うため1896年12月31日まで施行を延期することになり、論争は延期派の勝利に終わった。

[吉井蒼生夫]

ドイツの法典論争

19世紀初頭、ドイツ統一運動の高揚を契機に、全国的な統一法典を制定すべきか否かをめぐって、チボーとサビニーとの間に交わされた論争をさす。1813年ナポレオンがライプツィヒで大敗し、ドイツがその制圧から解放されると、民族的自由の獲得を目ざすドイツ統一運動が盛り上がった。当時ハイデルベルク大学教授だったチボーは、敗走するフランス軍をみて触発され、同年6月『ドイツのための一般民法典の必要について』Über die Notwendigkeit eines allgemeinen bürgerlichen Rechts für Deutschlandと題する小冊子を発表した。そのなかで彼は、領邦国家に分裂しているドイツを統一するためには政治的旧制が復活する前に、まずオーストリア民法典、フランス民法典を範として、私法、刑法、訴訟法(彼はこれら全体を民法とよぶ)について、ドイツ全体が一つの法で規律されるような統一法典をつくる必要があることを主張した。このような主張はすでに18世紀からみられたが、当時の政治情況にあって、彼の情熱的な論文は、学者や政治家に大きな感動を与えた。

 これに対し、ベルリン大学教授だったサビニーは、同年『立法および法律学に対する現代の使命について』Vom Beruf unserer Zeit für Gesetzgebung und Rechtswissenschaftと題する小冊子を発表して反論を行った。これが法典論争の始まりである。この論文は、歴史法学派の綱領論文ともなり、その後大きな影響を与えた。サビニーによれば、法は言語、風俗、制度と同じように民族に特有のものであり、民族の共同の意識(のちに民族精神Volksgeistとしている)によって自然に生成したものであって、チボーのいうように普遍的原理に基づいて、しかもわずかの期間でつくれるものではない。法はこのように民族の共同の意識が現れたものであるから価値があるので、そこには無意識のうちに統一が内在している。このことは、法のなかに指導原理(正確な概念で組み立てられた体系)のあることを意味する。民族の共同の意識と民族の確信は法律家の認識にゆだねられ、法律家を通じて初めて法律が発生するのであり、1人の立法者によってではない。

 そこで、現在の法律学の使命は、チボーのいうような自然法的な理性に基づく法典の編纂ではなく、過去の法とくにローマ法(ユスティニアヌスの法)を研究して、そこに指導原理を発見することにある。このような指導原理を法典として体系化できれば将来起こる事態に対処できることになるが、法律学の現状はまだ未熟であってそのような法典編纂の段階に至っていない。プロイセン一般ラント法はまだ参照に値するが、オーストリア民法典やフランス民法典は役にたたない。しかも法典に用いられるべき法律用語に欠けており、このような状態で法典をつくれば、実際問題としてプロイセン、オーストリア以外のドイツの法を統一したにすぎない結果となってしまう。以上が反論の要旨である。

 本来この論争は当時の政治情勢のなかで論じられたものであったが、その内実においては以上のように学問的論争であった。その後、ウィーン会議においてドイツは、自由な国民国家への道が閉ざされ、チボーの法典編纂論はほとんど顧みられることがなかった。他方、サビニーの理論は大きな影響を与え、やがてパンデクテン法学とゲルマン法学を生み出すことになった。1848年に至って、ふたたびドイツ統一運動が高揚し、そこでチボーの理論が取り上げられたが、国民民主主義革命――国民的法典によって全ドイツの国家市民を結集するという主張はついに実現することはなかった。チボーが革命的倫理的行為者であったといえるのに対し、サビニーは現状を維持する冷静な観察者であった。将来、学問文化(法律学)が国民的法典をつくることができるまで成熟するであろうというサビニーの予言は、その後のドイツの歴史のなかで実証されることとなった。

[佐藤篤士]

『長場正利訳「ザヴィニー、ティボー法典論議」(『早稲田法学』別冊第一巻所収・1930)』『星野通編著『民法典論争資料集』(1969・日本評論社)』『中村菊男著『新版近代日本の法的形成』(1963・有信堂高文社)』『平野義太郎著『日本資本主義社会と法律 日本資本主義研究Ⅱ』(1971・法政大学出版局)』『中村吉三郎著『法典論争』(小林直樹・水本浩編『現代日本の法思想』所収・1976・有斐閣)』

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百科事典マイペディア 「法典論争」の意味・わかりやすい解説

法典論争【ほうてんろんそう】

(1)19世紀初めのドイツで全国統一民法典の立法の可否について,A.F.J.ティボーとF.K.v.サビニーとの間にされた論争。前者は合理主義的な自然法思想に立脚して,ドイツの政治的分裂より生ずる法秩序の不安定を除くために統一法典の必要を力説し,後者は,法は日々の法曹の活動によって自然的・有機的発展をするものであり,政策的理由から統一法典を作るにはまだ機が熟していないと論じた。ためにドイツ民法典編纂(へんさん)事業は大幅に延期された。(2)明治20年代の日本で,商法典および民法典の実施についてなされた論争。結局両法典とも実施延期となった。→民法典論争
→関連項目梅謙次郎旧民法

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世界大百科事典(旧版)内の法典論争の言及

【法典編纂】より

…他の二つは民法の領域に限られ簡潔で明瞭である。 19世紀に入ると,いわゆるドイツの法典論争で,上記の法典にみられる法典の実質的完全性の観念や法改革への志向を批判し,法典ではなくて,法律学による統一法の形成を主張した。それにもかかわらず,国家の集権化,立憲主義の発展,さらに市場経済圏の拡大とともに,憲法典,刑法典,商法典など,個別の法領域で次々と法典が編纂された。…

【民法】より

…この草案は,司法省法律取調委員会,元老院,枢密院などの議を経て修正を加えられた後,90年に公布され,93年からの施行をまつばかりとなった(旧民法という)。ところが,公布前後の時期から,旧民法は日本の民俗慣習に合わないから施行を延期すべきだという議論が出てきて施行賛成派との間に論争を起こし,朝野あげての大議論にまで発展した(民法典論争,ないし法典論争と呼ばれる)。1892年には旧民法の施行延期を求める法案が議会で可決され,旧民法は流産してしまった。…

※「法典論争」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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