最新 心理学事典 「法心理学」の解説
ほうしんりがく
法心理学
forensic psychology
違法行為に関する心理学は一般に犯罪・非行心理学とよばれ,犯罪・非行を行なった人の心理的検査を通じて犯罪者の素質や非行深度などを理解し,一方で予防を図り他方で犯罪・非行者の矯正を推進する実務的領域として広がりをもつ。犯罪・非行者の処遇のあり方を広い意味で決定するのは国民の意識であるから,犯罪観・処遇観の研究も法心理学のテーマである。
捜査や裁判プロセスの研究も法心理学の一部である。ただし,国によって制度が異なるため,その研究内容は各国の制度に依存せざるをえない。目撃証言の研究は共通テーマの一つであるが,法廷における証拠としての目撃証言の扱われ方は各国で異なる。たとえばアメリカでは目撃証言の研究が盛んである。一方,日本では自白が重視されるため目撃証言よりは虚偽自白の研究が重視されている。日本で現在行なわれている裁判員裁判は民衆参加型裁判の一種であるが,これも国によって異なる形態をとるため,その研究は少しずつ異なる。日本では実際に行なわれた裁判の評議内容が開示されないため,実際の裁判員裁判のデータを用いた研究ができず,模擬裁判を行なってそのデータを通じた間接的な研究しか行なえない。法律用語の理解しやすさの研究などは各国で共通のテーマになるが,使われる用語は国によって異なる。
被害者学も法心理学の新しい領域であり,近年大きな関心をもたれている。被害感情の理解,被害者のサポート,ケアを行なうための研究がある。また,被害者の心的外傷後ストレス障害(PTSD)の理解のみならず,損害賠償の時効が原事件の時点に設定されるべきか,PTSDが症状として発生した時点に設定されるべきか,という課題もある。
家事審判などを含む民事事件と心理学の関係についても,現在では積極的に検討されている。離婚時の子どもの親権をめぐる紛争,遺産相続における親族紛争など,実際の紛争を解決するための実践的な領域である。
【法心理学の歴史】 1893年にアメリカの心理学者キャッテルCattell,J.M.は日常経験に関する記憶の確実性の実験を行ない,これが裁判における証言の不確実性の問題を惹起したことから,法心理学領域の研究を刺激した。フランスではビネーBinet,A.が被暗示性の研究を行なった。ドイツ語圏ではオーストリアで予審判事を務めたグロースGross,H.が『犯罪心理学Criminal Psychology』(1897)において,裁判官がどのように証拠採用を行なうのか,など裁判官の精神作用を論じた。また,記憶心理学で著名なエビングハウスEbbinghaus,H.に教えを受けた心理学者シュテルンStern,W.(1901)が,新派刑法学者リストLiszt,F.E.と協力して目撃証言の曖昧さを研究した。また彼は『証言心理学への貢献Beiträge zur Psychologie der Aussage』という雑誌を1903年に創刊した。これは後に『応用心理学雑誌Zeitshrift für angewandte Psychologie』と変わり世界初の応用心理学雑誌となった。なお,ドイツでは19世紀の末から心理学者が刑事裁判において専門家証人として登用され始めた。1924年にはハフHaff,K.が『法心理学Rechtspsychologie』を著わした。
アメリカでは1906年,ある殺人事件の容疑者の自白が催眠暗示によるものではないかという疑いがもたれ,ハーバード大学の心理学教授ミュンスターバーグMünsterberg,H.らに検討が求められた。ライプチヒ大学のブントWundt,W.のもとで心理学を学んだミュンスターバーグはこれを機に応用心理学としての法心理学に関心をもち,アメリカの法実務において心理学的知識が少ないことの問題点を指摘した。すると1909年,ノースウェスタン大学法学部長ウィグモアWigmore,J.H.が『イリノイ・ロー・レビュー』誌に「ミュンスターバーグ教授と証言の心理学」と題した論文を発表した。この論文は裁判記録の形式を模して書かれ,被告はミュンスターバーグであった。その訴えの内容は,ミュンスターバーグが1908年刊行の『証言台でOn the Witness Stand』と題された書籍において,法学者・裁判従事者の名誉を毀損したというものである。
ミュンスターバーグの『証言台で』は,「序章」「錯覚」「証人の記憶」「犯罪発見」「感情の痕跡」「不正確な自白」「法廷における暗示」「催眠と犯罪」「犯罪の予防」の9章からなるが,ウィグモアは,この時点までの法心理学関係の文献を網羅的にリスト化し,これらの内容は専門家の知識として確立しておらず,とくにアメリカの法の実務家が法廷で使用するには不十分であったとしたのである。ウィグモア自身は心理学の効果をまったく認めなかったわけではないが,ミュンスターバーグの法に対する姿勢に異議を唱え,法廷闘争のスタイルをとって問題を狭く設定し,証拠を固めて自らを勝訴に持ち込む論法をとったのである。この論争の結果,法と心理の協働は少なく見ても50年は滞ったといわれる。
ウィグモアとミュンスターバーグの論争が停滞を引き起こしていたころ,心理学が捜査技術に応用される契機が高まりつつあった。虚偽検出である。1895年,イタリアの精神科医ロンブローゾLombroso,C.は被疑者がつくうそを検出する方法を追究する中で複数の生理的指標(血圧・脈拍等)の利用を提案し,これが現在のポリグラフ検査の初源となった。スイスの精神分析学者ユングJung,C.G.(1905)は,人がさまざまなことばに対する連想語を答える時には,語によって反応時間が異なることに着目した。これが犯罪捜査に取り入れられると,無言でいる時間が長い(反応時間の長い)ものは証言したくない内容を含んでいるのではないかと考えられることになり,虚偽検出の質問技法の基礎となった。これらをもとに,1932年にキーラーKeeler,L.によって現在使用されているポリグラフが完成された。
アメリカでは1970年代以降,認知心理学の台頭とともに新しい興味が生まれた。ロフタスLoftus,E.F.が目撃証言(の歪み)研究に着手し,また実際の法廷に専門家証人として立ち,司法領域がもつ心理学のニーズを再び開拓した。『Law and Human Behavior』誌が1977年に創刊された。1999年にはイギリスで第1回目となる国際的な法と心理学会が開催された。
【法心理学の課題】 犯罪や刑事法など,これまで関係の深かった領域については,現代的問題に対応することが課題であり,民事法や法意識などに関係する領域については研究領域の拡大と深化が課題である。
法制度が個別の国や文化に基づいていることを前提としたうえで,共通の原理を追究することは法心理学に課せられた使命の一つである。そのためには,法心理思想史のような領域が必要となる。法心理学の歴史は近代心理学成立以降の出来事としてとらえられがちだが,法思想の重要人物であるトマス・アクィナス,ホッブズ,ヒューム,ロック,カントなどは,それぞれ近世心理学史として理解できる重要な業績がある。法のあり方と人間の性質の追究の結びつきは自然法学においてとくに強い。17世紀から18世紀に隆盛を迎えた自然法学の立場は,人間の自然的本性に基づく不変の法の存在を主張したから,人間の性質を理解することを必要としたのである。
【日本の法心理学】 明治末期から大正初期にかけて法学者牧野英一と心理学者寺田精一による共同研究が行なわれた。牧野はドイツ外遊中に新派刑法論者のリストに師事し実証的研究の必要性を理解していた。寺田は大学卒業後,巣鴨監獄に勤めたこともある。寺田による「供述の価値」論文(1913)は法学雑誌『法学志林』に掲載された目撃証言研究の先駆である。第2次世界大戦後の日本では,法心理学は振るわず,心理学では虚偽検出,矯正といった分野が中心であった。ただし,心理学を学んだ後で法学を学び検事や判事を務めた植松正が目撃証言の曖昧さの研究に取り組み,法と心理学を架橋した。戦後日本の法学では川島武宜により経験(主義)法学が導入されてその中で法心理学的動向が紹介された。西村克彦は『法心理学の課題』(1955)を出版した。
1974年の甲山事件を契機として,心理学者浜田寿美男が自白の供述分析に取り組んだが,これは自白を強く求める日本の刑事制度が虚偽自白を生み出しがちだからこそ生まれた研究領域であり日本の法心理学を牽引した。1963年に日本犯罪心理学会が,1990年に日本被害者学会が,2000年には法と心理学会がそれぞれ設立された。
2009年には裁判員裁判が開始され,一般市民が刑事裁判の一部に参加することになった。わかりやすい法廷プレゼンテーションのあり方,裁判員の判断プロセスなどの研究を行なうことが今後の課題である。また,近年は被疑者の取り調べ場面の録音・録画(取り調べ可視化)も課題になっているが,録音・録画の方法によってはかえってバイアスをかける場合もあること(カメラ・パースペクティブ・バイアス)が知られており,その低減も重要な課題となるだろう。また,累犯障害者への対処,再犯防止のための教育刑のあり方なども日本における課題である。 →虚偽自白 →公正 →裁判心理学 →捜査心理学 →犯罪心理学 →ポリグラフ →目撃証言
〔サトウ タツヤ〕
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